保険、一歩ずつ

「共通化・標準化」の全体像について考える

 ロンドンでオリンピックが始まった。(※)

 「ノブレス・オブリージ(特権に伴う義務)、ジェントルマンシップ(紳士道)などに代表される、かの国の精神文化の基層に、自制と伝統(共同体)への愛着がある。アダム・スミスの市場経済論が、他者(人間)への共感を前提とする『市民社会論』であるのに通じる価値観といえる。」
 日経新聞特別編集委員の末村篤氏は、「自由と規律」(池田潔 岩波新書)の書評 (2008年3月9日日経新聞に掲載)でイギリスをこのように評し、書評の対象である「自由と規律」について、「英文学者、池田潔氏が英国のパブリック・スクールで体験した規則ずくめの耐乏生活を通して語る、教育論にして第一級の文明論、文化論である。」と述べている。
 そして、末村氏は、池田潔の「現今、われわれの社会の一部には旧套を捨てて新奇に赴くに急なる余り、事物の真価に対する認識を誤り、自由と放縦を混同して、あらゆる規律を圧制として排撃する気風の強いことが云々されている。いわばパブリック・スクールの精神とは、およそこのような風潮に対する強烈なアンティドート(解毒剤)なのである。」という言葉を引用しながら、現在に至る世界経済の混乱を引き起こした「強欲な資本主義」を強く批判している。
 今のイギリスがここに描かれたような高潔な精神を持つ国であるかどうかは分からない。LIBORを巡る一連の不祥事は、まさにイギリスが舞台になっている。しかし、池田潔が言うように、イギリスが歴史的に培ってきた精神は、こうした不祥事(毒)の「アンティドート(解毒剤)」として、今も大きな存在感を持っているのだろう。

 決して、自由化以降の保険業界を批判しようとしているのではない。普遍的な原理としての「自由と規律」を考えた場合、保険業界にも、自由な分野としての「競争領域」と業界全体を律する「非競争領域」が存在する。この二つが両輪として適切に稼動してこそ、国民生活や企業活動に貢献し、世の中から高く評価される保険業界になれるのだ。そして、問題は、全体感として「非競争領域」すなわち「共通化・標準化」の領域をどう定めるかである。
 月1回を原則とするこの連載で、これまで7回を費やして「共通化・標準化」について記してきたが、その内容は、保険商品を主軸とするものであった。保険は約款と料率から成り、そこには長い歴史によって築かれてきた「論理と倫理」が存在する。保険を供給する側の「強欲」や保険の需要者である消費者の「甘い期待」に対し、保険商品は決して無防備に身を委ねてはならないのである。
 保険商品の基層に内在する「論理と倫理」を「旧態依然としたもの」「金太郎飴的なもの」として批判し、「自由な競争による業界の活性化」や「消費者ニーズの受け入れ」を流行り言葉のように安易に口にすることは誤りである。
 保険契約者と保険会社の間に存在する情報格差(情報の非対称性)を正すための標準約款の必要性、大数の法則の前提となる保険種類、保険種目、リスク区分の存在、さらには民間企業が供給する商品でありながらも、保険には「効率性」だけではなく「公平性(衡平性)」が求められるという特性があること、こうしたことを踏まえた上での「自由な競争による業界の活性化」、「消費者ニーズの受け入れ」でなければならない。まさに「自由と規律」が大切な理念なのである。

 ところで、「共通化・標準化」は保険商品が中心となるものであろうか。いうまでもなくその他の多くの分野において「共通化・標準化」が求められる。損害査定、事務、システムの3つの分野は、誰もが思い描く代表的な分野である。また、募集人試験などの資格試験もこれに該当することに誰も異論はないだろう。
 では、損保協会や交通事故紛争処理センターが行う「ADR」はどうだろう。損害保険事業総合研究所(損保総研)が行う「教育」はどうだろう。統合的リスク管理(ERM)、保険監督者国際機構(IAIS)、国際会計基準(IFRS)などの動向に関する調査研究はどうだろう。
 このような様々な分野においても、「共通化・標準化」の動きは必要なのである。どのような分野が「共通化・標準化」の対象であるか、そしてそれを実行していく際の担い手は誰であるか、次回以降は、「共通化・標準化」の全体像を視野に入れながら、このような点に関して論を進めて行きたい。

(文責個人)

日本損害保険協会 常務理事 栗山泰史


※この記事は、2012年8月に書かれたものです。