地震保険を語る

(第二回)地震保険が生まれる前に・・・


 田中角栄という政治家のことは、とても多くの人が覚えているだろう。「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれる知識と行動力で政界に名をなし、学歴のないまま首相にまで上り詰めて「今太閤」と賞賛された。ロッキード事件で政界の第一線から身を引くと「目白の闇将軍」として裏から政界を牛耳った。
 この田中角栄氏が、44歳という当時では異例の若さで第二次池田勇人内閣の大蔵大臣に就任したのが1962年のことである。それから2年後、新潟で大地震が発生した。死者は26名と奇跡的に少なかったが、建物の全半壊8600棟、津波と液状化による浸水1万5298棟と建物の被害に注目が集まった。被害は新潟を中心に山形、秋田など、日本海側を中心に9県に及んでいる。
 この被害を目の当たりにして、田中角栄大蔵大臣が「地震保険が必要だ」と言い出したことが地震保険誕生の大きなきっかけとなった。そして、新潟地震の発生から2年後の1966年6月、「地震保険に関する法律」が制定されたのである。
 ところで、1923年(大正12年)の関東大震災(死者・行方不明者10万5千人、建物の全壊全焼32万1千戸)の際に、今と同様に火災保険では地震は支払えなかったが、当時の損害保険会社は火災保険の契約者に保険金ではなく見舞金を支払うことを決定した。原資として政府から6354万円を借り(利率年4分、償還期限50年、据置期間3年)、これに各社の自力での拠出分1134万円を加えて、合計で7488万円が見舞金として支払われた。6354万円は、当時の損保業界の負担感としては今の7兆円に近い金額である。この借入金は一部保険会社の経営を大きく圧迫する要因となり返済軽減の運動が続けられたが認められず、結局、戦後のインフレが問題を解決することとなって、1950年3月にようやく返済は完了することとなった。
 新潟地震の後に生まれた地震保険の過去には、このような長く、様々な保険の歴史があったのである。(文責個人)

日本損害保険協会 常務理事 栗山泰史