地震保険を語る

(第六回)日本国政府の決断

 地震のように滅多に起こらないが、ひとたび起こると途轍もない大災害となるようなリスク(危険)について、保険会社は、例えばロンドンのロイズのような世界の「再保険」という仕組みを通じてリスクの分散を行う。前回、ここまで述べた。
 さて、田中角栄大蔵大臣の「地震保険が必要だ」という鶴の一声にはどんな意義と重みがあったのか。今回は、これについて述べよう。
 地震保険が誕生した1966年(昭和41年)当時、世界の再保険者は日本の地震リスクに見向きもしてくれなかった。リスクが大きすぎることと、日本の国力が小さかったからだ。新潟地震の悲惨な状況に接しても、日本の保険業界だけでは、どんなにがんばっても巨大なリスクである地震保険の引き受けに乗り出すことは無謀なことであった。いざというときに「支払えません」と言って破綻するのは、保険会社にとって何よりも避けねばならない事態である。
 田中大臣の鶴の一声は、ここでとても重かった。当時の大蔵省は、大臣の命を受けて、「世界が相手にしないなら日本国政府が再保険を引き受けようじゃないか」と腹を括り、保険業界とともに制度の創設に向けて人知を尽くした。
 地震保険の発足当初、保険の契約限度額は建物が90万円、家財が60万円、しかも火災保険の契約金額の30%が上限で、全損の場合のみの補償となっていた。しかも普通の火災保険には付けることができず、当時の住宅総合保険または店舗総合保険(併用住宅の場合)に強制的に付ける形でのみ契約できるという制約が付いた。 この結果、保険会社や代理店は、総合保険(火災事故だけではなく自然災害など家に起こる様々な事故を対象とする保険。今ではこれが普通の保険で、火災事故のみを対象とする保険はほとんどない)の売れ行きが悪くなり困ったくらいであった。
 ともあれ、地震保険は、日本国政府が後ろ盾になったものの、政府も民間保険会社も、まさに恐々(こわごわ)の状態で誕生したのである。 (文責個人)

日本損害保険協会 常務理事 栗山泰史