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日本人とは何か

第39回 海外から学ぶ日本人(その2)

公益財団法人東京財団
上席研究員
小松正之
2018年2月1日

外国に学ぶ日本と遅れた清

外国との比較が、自国を評価する際に重要となる。その最も身近な例は中国(清)である。

江戸時代の末期日本にも米国の帆船捕鯨船や交易を求めるロシア艦船や軍艦が来訪したが、江戸幕府はこれを異国船打ち払い令によって排除していた。しかし、ついに1853年に浦賀にやってきた米国の東インド洋艦隊マシュー・ペリー提督の軍事的圧力によって1854年開国を強いられ、また、1860年には日米修好通商条約を締結した。しかし、外国との正常な交易はその後の交渉を待つ。国内では開国派と攘夷派が対立したが、江戸期に培われた教育水準の高さから、攘夷を否定し、短期間に開国にかじを切った。国内では薩摩と長州が朝廷を擁立、江戸幕府と対立し勝利した薩長の明治政府は「富国強兵」と「殖産興業」を掲げ、日本国の近代化を急ぎ、一気に走り出す。国民の教育水準の高さ、教育制度の確立と広く人材を日本全国に求めた政策により、1868年の明治維新からわずか50年で日清・日露戦争を経て1918年第一次世界大戦を勝利して世界の列強の一員となった。

こんなスピードで目的を達した国家はその世界史の中にも例をみない。しかしわずか36年後に第2次世界大戦で、国家体制と国土が全面的に破壊される事態を招いたのも、稀有である。


西洋の侵略と清朝の対応

一方、清は1840年のアヘン戦争、1856年のアロー号事件、西洋諸国の侵略を受け、1850年から64年の太平天国の乱の鎮圧で清は弱体化し、産業革命を経て科学力と軍事力を増強した西洋諸国には太刀打ちできなかった。

外国からの圧迫は、清が日本より早く受けたが、改革を進行させなかった。明治維新後、西洋の技術・制度を取り入れ、近代化を果たした日本に1894年日清戦争で敗れ、康有為と梁啓超らは明治維新に倣った清朝の改革;戊戌の変法を推し進めようとしたが、西太后らの反対にあった。


明治維新と日本の近代化

ところで、清の西洋からの侵略を目の当たりにし日本は、明治年間に西洋の法制度や科学・技術を取り入れ、西洋の侵略を防ぐ方針を取った。

明治維新は、封建制から近代国家への革命で、これは農民や商人・資本家からの革命ではない。産業革命により資本家と商人層が台頭し、これらの階級が力をつけた西洋の革命とは異なる。日本は大名以外の武士層の革命であった。西洋と異なり、西洋社会による外圧に対抗するための武士層への権力基盤の交代である。封土と大名との関係の廃止、民法や刑法制定、地租等税制、教育制度や徴兵制度は改革したが、家族制度や社会階級は維持し、農地所有の改革も第二次世界大戦後を待つことになる。

中央集権を遂げたプロセインを倣い、立憲君主主義を導入し権力は民衆には渡さず、エリート集団が保有した。


明治維新と清国

1985年の日清戦争での清の敗北とその後の下関条約の締結は中国人に大きな憤りを生じた。清の改革が必要との考えが広く力を持ち、康有為と梁啓超らが「維新変法」を唱え、光緒帝を立てて清朝を改革しようとした。「戊戌の変法」である。これは明治維新に倣ったものが多く、清朝組織の改革など急進的で財政的裏付けに乏しく失敗した。光緒帝の政治改革は、守旧派の西太后により阻止され、教育改革だけが実行された。

1898年12月に北京帝国大学が発足した。東京大学など日本の大学制度に倣ったと言われる。

その後中国は1980年代に鄧小平の主導により日本の経済を学び経済投資を導入する。一国2制度と経済特区政策であった。

最近日本では、縮小傾向の産業を所管する政府機関の部署や地方部門に海外から学ぶことはないと、あまり外国から学んだ形跡のない人々が発言をする。このことはこれまでの日本史上の海外から学ぶ日本人とは異なる。謙虚にかつ時には遣唐使のように命がけで学んだ。戦後の日本人も米国等海外で異質の文化で苦労しつつ学んだ。学んでまた、海外に教え返して恩返しすることが人としての原点であろう。



明治維新から学んだ中孫文氏像 北京香山碧雲寺2012年


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