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日本人とは何か

第65回 オーストラリアと日本

東京財団政策研究所
上席研究員
小松正之
2019年9月10日

西オーストラリアは他と異なる

日本が真夏の真っ盛りの2週間にわたり、豪州を訪問した。とても快適な旅であった。今回の旅は、リチャード・コート現駐日豪大使のお勧めに従い、大使が州首相を務められた西オーストラリアの首都パースの街の訪問から始まった。これまでオーストラリアは数えきれないほど訪問したが、そのほとんどがオーストラリア連邦政府の首都キャンベラへの訪問で捕鯨とミナミマグロ交渉をした。いつも決裂だった。それでも話し合いはとても重要である。最近の政治家と役人はその認識と努力が足りないと思う。

西オーストラリアは行ってみると、東とは違うと肌で感じられる。自主独立の精神が旺盛である。同州は、オランダ人が発見し、東海岸より100年早いが、不毛の地が広がっていたために、英国人などの入植は東海岸のシドニーから100年程度遅れる。

オーストラリア連邦成立は1901年であるが西オーストラリア州は、豪連邦にはすぐには加盟しなかった。囚人によって開拓された東側のニューサウスウェールズ州やビクトリア州とは異なるとのプライドである。英国やアイルランドから経済的自立や自由を求めてやってきたとの自負があるだろう。


白豪主義と戦後の経済発展

ゴールドラッシュとその後の安価な労働力として中国人が大勢流入し、連邦の成立とともに白豪主義が明確になる。また、連邦の成立には防衛的要素があり、太平洋に進出した仏とドイツ並びにその後に進出した大日本帝国に対する脅威感があった。しかし、第2次世界大戦後は英国の衰退とアジアの台頭で白豪主義がなくなり、日本との関係も戦後は大幅に転換する。これらの国々との経済的、地政学的関係が、英国との関係より重要となった。しかし、常に、英国や欧州で成功をおさめなかったことなどへの引け目があり、常に英国を真似たい、超えたい、英国で教育を受けたい人が多かった。

極めて親日的である。西オーストラリア州の戦後の経済的な発展は、日本によるこの地の石炭や鉄鉱石の輸入によって支えられた。現在でも海外資源開発などの国策会社として発足したINPEX(国際石油開発帝石株式会社)などの石油、天然ガスや鉄鉱石の開発のための日本政府系企業がパースに大きな支社を構える。街を歩いていると日本食レストランが多い。



パース市の中心部をエリザベス湾から望む 2019年8月11日


マニング・クラーク(1915~91年)著「オーストラリアの歴史」

私の手元にはマニング・クラーク著「オーストラリア史」がある。今年の訪豪が決まる前には160ページまでしか読み進まなかった。本も、背景がわかり、内容がわかるようになると、読み進む。2012年にキャンベラで購入し、初めて読んだのが2014年で、その後2018年に訪問した際にも持参した。ABC(豪州放送協会)の記者ともマニング・クラーク氏の歴史家としての偉大さの話をしたことがあった。今度は訪豪前にほとんど読み切った。残りの200ページを一気に読んだ。

記憶に残ったのが労働党と保守連合が交互に政権を担当する2大政党の良き例のように見えることだ。労働党はアイルランドやイタリア系のカソリック信者が支持者であるが、保守連合は英国系のプロテスタントと富裕層が支持者である。オーストラリア政府の役人に聞くとそんなに単純ではないとは言うが、この理解を同書は私に与えてくれた。オーストラリアの現在の政治が良く見えてくる。日本の政党には明確な主義主張の差がみられるのであろうか。


西オーストラリア州と日本との友好

フリーマントルはパースの外港でスワン川の河口にあたる。スワン川をさかのぼればパースの街にたどり着く。パースはスワン川のゆったりと川幅が広くなったところに開け、パースとスワン川が見渡せるキングス・パークから見る眺めが川と街がちょうど調和している。

フリーマントルは、数多くの日本の遠洋マグロ漁船が入った。焼津、室戸、串木野や気仙沼から向かった。日本との関係がとても深かった。姉妹都市を西オーストラリアの9自治体が日本の10都市との間で結んでいる。戦争の敵は、友好的な関係に変わった。そして経済発展を日本が支えた。今後はどう変わるのか。



フリーマントルの海事博物館と筆者 2019年8月11日


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