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日本人とは何か

連載第69回 石川啄木の里渋民村を訪ねて

東京財団政策研究所
上席研究員
小松正之
2019年12月5日

岩手県渋民村の生まれ石川啄木

私にとって石川啄木にいくつかの縁がある。一つは旧制盛岡中学校の出身であることである。彼は、明治19年(1886年)2月に南岩手郡日戸(ひのと;渋民の近く)に生まれた。明治29年(1898年)4月盛岡尋常中学校(のち盛岡中学校)に入学した。3年先輩に、啄木の面倒をよく見るアイヌ語研究の大家の金田一京助がいた。10年後に宮沢賢治が入学した。彼らは異彩を放つ人物である。

私は、昭和44年(1969年)4月にのちの盛岡第一高校に入学した。


渋民を訪ねる

11月27日に、数十年ぶりに渋民村を訪ねた。高等学校の同級生が石川啄木記念館の館長をしているからだ。

盛岡駅から電車に乗ろうとした。当然JRとの先入観でいたが、第三セクターの「いわて銀河鉄道」であった。JRの改札口から遠く、発車時刻が迫り、走りに走った。盛岡を出発すると、青山、厨川駅を通過し渋民駅に着くと、北に向かって、左側に「南部富士の岩手山」が見えた。渋民付近で見る岩手山が澄んでとても間近にコニーデ型富士山型の素晴らしい姿を見せた。



石川啄木記念館から見た岩手山 著者撮影2019年11月27日


それに対をなし右側には緩やかに左側に高なる姫神山がくっきりと優しい女性のよう見えた。両山と啄木さんが小松さんを歓迎してくれたと後で森義真石川啄木館長が語った。



渋民駅から見た姫神山 著者撮影同年11月27日


啄木と函館と釧路

高校時代に、国語担当の遊佐省吾先生が啄木の話を詳しくされた。

しかし、私と啄木との出会いは、啄木が転々とした北海道の函館であった。函館は、幕末にペリー米東インド洋艦隊提督が日本開国を目的として来日し、日米和親条約が締結され、下田と函館の開港が決定した。1854年ペリー提督は直ちに函館に向かい称名寺に滞在した。2004年頃度々函館を訪れた私は、須藤隆仙ご住職から教えをいただいた。ご住職は残念ながら昨年12月にご永眠された。「宗教人石川啄木」(みやま書房)の著書があり、「世界宗教用語大辞典」(人物往来社)は圧巻の名著で、膨大な教養がにじみ出る。須藤隆仙ご住職によると、函館の人は啄木にやさしかった。しかし岩手と渋民の人々は、彼が有名になってから、彼を持ち上げて利用したとおっしゃった。「遊佐省吾」先生の啄木研究も決して褒めなかった。

森義真館長とは高校の同級生である。しかし彼は文科系で私はその年から発足した理数科に入学した。私の理数科入学動機は「同郷の同級生との競争上の対抗心からであった」と高校のアンケートに答えたらそれが小学館月刊誌「高校一年生」に原文のままとして掲載された。

森館長は啄木の生い立ちから説明をしてくれた。説明を受けると理解が進む。



石川啄木記念館の正面 著者撮影同年11月27日


啄木は釧路で名編集長として名を上げる。彼はその道に進めば、経済的な苦境から逃れ、そして名声を博したのではと思われるが、啄木は、創造性がない仕事を嫌がった。編集の仕事は創造性がないとこれを100日程度でなげうつ。


啄木の歌と終焉の地

「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」は私が盛岡に住みだして最初に接した歌であった。「やはらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに」と「ふるさとの山に向かいて言ふとこなし、ふるさとの山はありがたきかな」の二つの歌は15歳で陸前高田市広田町を離れて下宿生活を始めた私にとっては、自分の生まれ故郷と重ね合う。

最近の啄木の企画展が目に留まった。文京区(啄木の終焉の地が小石川である)との連携企画展であった。わずか26歳でこの世を去った天才歌人の国語力と文章使いに圧倒される。どこで彼の日本語力と世界観を前面に押し出す表現力が若年のうちから備わったのであろうか。10歳代から20歳代である。自分も最近文章を書く機会が多くなり、高校時代は不得意であった日本語に頼ることが必定で日本の歴史と文化に触れる機会が多くなるにつれて石川啄木のたぐいまれなる異彩に感嘆しその源を知りたいと思った渋民への旅であった。



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