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日本人とは何か

第71回 イギリス人と日本人

東京財団政策研究所
上席研究員
小松正之
2020年1月23日

イギリス人の歴史から日本人を読み取る

年末年始はゆっくり読書をした。「イギリス人とその歴史」(トンブス著)で900ページあり、8割読み進んだ。日英の歴史を比べて、日本人とは何かが見える。


イギリスは海洋国家へ

日本もイギリスも温帯域に属する島国である。イギリスには最初にケルト人、そしてローマ帝国が、その後はサクソン人とゲルマン人が、次いでデーン人(カヌート王)が侵入した。1066年にはノルマン朝がフランスのノルマンジーから侵入して、イギリスでの長く続く安定した国家のもとを造った。



ウェストミンスター宮殿;英国議会 2019年2月著者撮影

ところで、日本は、大陸や南方の島々の人々が渡来し大和民族を形成した一方で、任那や百済の王族や貴族が海を渡って、大和朝廷の基盤を造ったと考えられる。しかし日本海と東シナ海は、中国、朝鮮の大陸文化との間にある大きな障害であった。日本と朝鮮半島との距離は約200キロ(対馬と朝鮮半島は50キロ)と長いが、ドーバー海峡は34キロで簡単に海を渡れた。イギリスのノルマン朝はフランスの西半分を所有し、英仏間の100年戦争を引き起こした。しかし1429年にイギリスは、ジャンヌダルクの率いるフランス軍に敗れて、その後大陸の領土をすべて失い、イギリスは、海洋国家を目指した。


日本は内向き国家へ

日本は、大陸との交流があったが菅原道真が遣唐使を廃止し、国内での繁栄と安定を目指した内向きの政策をとった。同じ島国で対照的な方向をとった。この日本の内向きの方向性は、倭寇と足利義満の朱印船貿易の時代を除き、鎌倉時代、室町時代と変わらず江戸時代の鎖国で強化された。

この政策が変わるのは江戸末期の米国とイギリスなどの「太平の眠りを覚ます蒸気船」が、海外との交易を求めて来航してからのことである。


封建制度の違いと議会制度の成立

イギリスも日本も階級社会と農本主義の象徴である封建制度が発達した。両国の差はイギリスでは王朝から封土を認められた貴族が特権階級を形成し、王権を支えた。しかし、王権力の横暴が過ぎて、次第に力をつけた貴族、ジェントルマンが王権に対抗した。日本の封建制は、武士や地方豪族が土地を所有し、忠誠の相手が、天皇ではなく地方豪族と大名であった。イギリスの強大な王勢力に対抗する抗争・内戦(Civil War)とは根本が違った。

貴族やジェントルマン(議会派であり「ウィッグ党」と呼ばれのちには「自由党を経て現在の労働党」に吸収される)が王権を制約し、議会が意思決定する議会制度が発達した。しかし王権を支持した貴族がおり、彼らは「トーリー党」と呼ばれた。現在の「保守党」につながる。この内戦には、トーリー党は主として英国教会(16世紀のヘンリー8世の離婚問題でローマ教会から分離)、ウィッグ党のカソリック教、新教徒・清教徒の違いも、また英、アイルランド、スコットランドとウェールズの民族の違いも絡んだ。これらの宗教と民族の違いは英国連邦内の対立と融和と妥協の難しさを物語る。結局このような宗教と民族の違いが現在のBREXITやアイルランドの分離独立、北アイルランド問題やスコットランド独立を目指す動きにもつながる。


米から英国流の議会制度を日本へ

日本は内戦も戦国時代を除くとほとんどなかった。内戦も一般民衆や農民が関与したものはないし、戦国時代も地方豪族や大名がそれぞれの土地勢力・農地の確保のために戦った。明治維新も単なる為政者と権力機構の変更に見える。したがって議会制民主主義が発展することもなく、明治政府下で議会が出来ても、これが資本家や民衆からの力で出来上がったものではない。議会に決定権はなく、天皇を統治者とする立憲君主国家であった。

戦後の議会も日本はこのイギリス発祥のシステムを米から与えられた。従って、真の民主主義的な議会を知らない。

嘆かわしいことに最近IR;カジノや公職選挙法違反をめぐる国会議員を巻き込んだ事件が起こっているが、総理大臣や国会議員が説明責任を果たさず、その本分は何かが身についていない。


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