世界と私

第1回 私のドイツ経験とメルケル首相

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年2月6日


ロマンチック街道と黒の森
 1988年から91年までローマの在伊日本大使館の一等書記官であった。イタリアからはドイツはオーストリアとスイスを超えればたどり着く。1989年7月、ロマンチック街道のローテンブルクなどの街、大規模な植林で復活した黒い森(シュバルツバルドー)、白鳥城(ノイシュバンシュタイン)を訪れた。ロマンチック街道の町々は、それぞれの建物がカラフルで建物の大きさも制限され、調和がとれる。家々と商店の軒先には赤い花や緑の鉢植えがあり美しい。黒の森は森の精が宿るようでの民族衣装を着た人と会える。グリム童話に出てくる妖精がそこにいるような錯覚にとらわれる。
 白鳥城は、19世紀に時のバイエルンのルードリッヒ2世が、ベルサイユ宮殿に刺激され自分の理想を実現するためにおとぎの国の城に作り上げた。この城はデズニーランドの城のモデルになった。
 この城の近くに私達家族は宿を求めたが英語が通じず困った。「チンマー・フライ」(部屋が空いている)という看板を目当てに、夕日も暮れ田舎道でその看板を見つけ、そこに泊まった。夜中その宿の女主人が部屋をノックする。何事かを説明するがドイツ語がからっきし解らない。わが自動車のヘッドライトが点いていると教えてもらい、事なきを得た。


ベルリンの壁崩壊とドイツの再統一
 1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。私はローマから見ていた。東ベルリン側に有ったブランデンブルグ門が統一ベルリンの象徴として再び姿を現した。東西ドイツは1990年10月には統一され、ベルリンは1991年にドイツの首都として再び定められた。この門を2004年に訪れた。
 1991年に南極条約の締約国会議に出席のため、旧西のドイツ首都ボンを訪れた。2004年には、ベルリンを訪れた。国際捕鯨委員会(IWC)への出席のためである。


西ドイツで生まれ東ドイツで育ったメルケル首相
 東西のドイツが統一なされなければ、メルケルが首相にはならなかったろう。ベルリンから北に約80キロのテンプリンという町に、アンゲラ・メルケルは生まれた。父はプロテスタントの牧師で母は英語の教師であった。彼らは旧西ドイツのハンブルクに住んでいたが、アンゲラ・メルケルの生後すぐ家族は父の故郷の東ドイツに引っ越した。(写真;少女時代のメルケル首相)当時は東西の行き来はそれほど困難ではなかった。ところが経済格差が大きくなるにつれて東から西に流れる住民が多くなり、ベルリンの壁が造られるなど東西の交流は禁止された。
 メルケルは、数学、英語とロシア語が抜群にできた。スポーツと音楽が苦手であった。父は教育熱心であった。長女がいい成績を取ることを望んだ。そして彼女は名門のライプツイヒ大学に進み物理学を専攻し、東ベルリンアカデミーに勤める物理学者になった。博士号も物理学である。ウルリヒ・メルケルと結婚し4年後離婚した。姓は変えなかった。
 とてもおとなしく、東ドイツ独裁政権ではあまり語らなかったメルケルが、ベルリンの壁が崩壊して途端に活発になる。1990年統一後、コール首相の率いるキリスト教民主同盟(CDU)から連邦議員として当選。91年にはコール首相に引き立てられ女性・青年賞に就任した。2000年に献金スキャンダル問題で揺れるCDUの党首に就任し、2005年の選挙で勝利し首相に就任した。初の女性首相である。


原子力発電所の廃止とEUの経済再建に取り組む
 2011年の福島第一原発の事故直後メルケル首相は直ちに2022年までの原子力発電所の廃止を決定した。緑の党の躍進が予想されたからだ。また、2004年のアテネオリンピックとストライキなどで膨らんだ多額の負債抱えたギリシャ財政の再建が欧州経済とユーロの維持の重要課題となり、メルケル首相はこれらの政策実現に主導権を発揮する。日本の政治家には見られない具体策を提示する強いリーダーである。


少女時代のメルケル首相
少女時代のメルケル首相


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