世界と私

第3回 鉄血宰相ビスマルクとカール・マルクス

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年3月9日


ビスマルク(1815〜98年(任62〜90))とマルクス(1818〜83年)時代
 世界の歴史と人間の活動はめぐる。前進や革命があれば、その反動があり反動に対して自由を求める動きが爆発する。
 フランス革命とナポレオンの台頭はヨーロッパに自由をまき散した。危機を感じ欧州の皇帝・諸侯は社会を旧体制に戻した。しかし、民衆の不満は高まり1848年にパリで始まった革命がウィーンとベルリンに波及した。
 ドイツはフランクフルト国民会議でドイツ王とする決議が採択したが王は拒否した。そしてその後、プロシア王国とドイツ帝国の宰相ビスマルクが登場する。
 18世紀の末から英で産業革命がおこる。これまでの地主貴族に変わり、工場を所有する資本家階層と労働者階級も出現した。資本家の台頭で社会の意識は高まり、人々が農村から都市へ職を求めて移住した。王侯だけで、社会を支配する時代には終わった。


ドイツ統一へ専制政治と軍事力
 ビスマルクが実権を握っていた時代に3度の大きな戦争を戦う。それによって、ドイツ帝国として1871年1月統一がなされた。ナポレオン三世(図;敗れたナポレオン三世を見送るビスマルク)との普仏戦争に勝利した後である。議会には意思決定権がない憲法を採択した。この憲法を手本としたのが、明治憲法であった。日本は議会を開設したが、米国や英国の民主主義からはほど遠い形式だけの憲法制度を導入した。


マルクスにはロンドンが自由の活動の地
 プロシアを追放されたマルクスはパリとブリュッセルを経て、1848年からロンドンに住み、一家にとっては終の棲家になった。金銭的には苦労したが、自由で安全な生活となった。1862年、古くからの友人で社会主義の闘志であるラッサーレがロンドンに訪ねて、エンゲルスとともにプロシアの首都ベルリンでの出版活動に従事することを提案した。単に社会主義の物書きで終わるか、行動を伴った物書きになるかとの間の選択であったが、ドイツへの帰国とそこでの活動は生命の危険も伴った。
 ラッサーレが社会主義労働党を樹立した。彼の死後、全ドイツ労働者協会の会長への就任を依頼されたが、それを断った。


プロシアとロシアと権力嫌いのマルクス
 マルクスはビスマルクと専制政治とフランスも嫌いだった。生まれ故郷が仏軍に蹂躙されたからだろう。不思議なことにオーストリアには好感を持った。
 プロシアが嫌いではあったが、皇帝ウイルヘルムI世が2度も暗殺の危機にあった。テロリズムの手段を非難した。それを口実にビスマルクは社会主義者への弾圧を強化した。
 また、パリのコミューンの暴力的なやり方を非難した際、彼はビスマルクの手下ではないかとのうわさを流され、それが海を越えてロンドンまで届いた。彼はユダヤ人であったが、カソリックに改宗した。ユダヤ人は、金儲けに固執し、社会的弱者に配慮しないとの理由であった。
 彼は年上で裕福でない貴族出身のジェニー・ヴォン・ウエストファーレンと結婚した。そして、プロシア政府官僚の職を得ることしなかった。権威、専制王政、貴族階級、軍人をなど権力に基づく行動をとる連中が嫌いで、独裁と専制で民衆を顧みないプロシア帝国とロシア帝国が嫌いだった。これらの帝国を革命により破壊したいと考えた。


旧ソ連と中国の体制とは無関係のマルクス
 マルクスの共産党宣言や資本論に述べられたことは、後にロシアや東欧と中国に起こった統治体制の成立とはほとんど関係がない。彼自身は体制の具体例にはほとんど意図的に触れなかった。そして同時代の革命主義者の考えが、現在では消えてしまったが、マルクスはその示した「個人と市民社会、抑圧者と被抑圧者、労働者と勤労の産物の差を取り払った理論」の斬新さが現代にも営々と生きているのである。
 マルクスは自由と公平と平等の重要性を訴え、人間の尊厳を大切にした。愛らしい人間像に見える。


ナポレオン三世を敬礼して見送るビスマルク
ナポレオン三世を敬礼して見送るビスマルク


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