世界と私

第5回 南極探検一番乗りアムンゼンと悲劇のスコットの差は何か

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年4月2日


アムンゼンの師であるナンセン
 ナンセンは1861年に弁護士の子として生れたが、ノルウェーの首都の郊外に育ち、自然の中で遊び、スキーが上手であった。大学で動物学を専攻し海洋学と北極も専攻する。その後ベルゲンの博物館で学芸員を勤めながら、北極探検の計画に挑戦する。1888年ナンセンは人類史上初めて氷に覆われたグリーンランドの西海岸から東海岸への横断に成功する。1893年には、北緯86度13.6分、ほぼ、北極点まで到達した。無事に帰還すると、ノルウェーの国民は英、加、独、米とスウェーデンなどとの間で国際的に北極点探検を争い、この競争に勝ったことで国民が大いに喜んだ。彼は、アムンゼンに多くの経験を教えた。


アムンゼンの北極の北西航路の船での初踏破
 アムンゼンは1872年にオスロの南の街ボルゲに生まれた。海運業の父。母は彼を医者にさせたかったが、ナンセンのグリーンランドの横断の成功に刺激され、途中で退学、探検家を目指す。彼は若い時からスキーでの山越えをし、捕鯨業者やアザラシ業者と交わり、北極の海を熟知した。1905年8月ヨーア号でカナダの東からアラスカのボーフォート海に抜けることに成功し北西航路の通過に成功した。この3度の越冬の際に、彼はエスキモーから犬の使い方や、防寒具としての獣皮の着用を習った。アムンゼンは基礎を着々と積み重ね後の南極探検に備えた。
 アムンゼンの生きた時代のノルウェーは1905年の独立と国際社会からの認知が大きな国家・国民的な課題であった。少ない人口で、個人の能力と資質を引き出し国のために貢献するとの生き方が重要との考えが支配的な風土であった。
 一方のスコットは英海軍の軍人であり、その人生は出世が目的であった。また、英海軍は官僚的な組織に変質していた。ナポレオン戦争での1805年トラファルガーの海戦でネルソン提督がスペインとフランスの連合艦隊を破って以来、英海軍の不滅思想ができ、進取の気性が後退した。南極点の制覇の何ら関心がなった。
 1909年4月に米国のロバート・ピアリーが北極を制覇したことを知り、アムンゼンはその目標を南極点の制覇に切り替える。1910年10月アムンゼンは、ナンセンからフラム号を譲り受け南極に向かった。そして、ロス海のクジラ湾にキャンプ地を設け、其処で約10月を準備に費やし、10月20日に南極点へと向かう。1911年12月14日に南極点に到達。ノルウェーの国旗を立てた。そして全員が12年1月25日に帰還する。一方スコット隊は1911年11月1日にロス海のエバンス岬のキャンプ地を出発した。1912年1月17日南極点に到達した。一か月遅れで、帰路に悪天候に会いスコット隊は全員が死亡した。


アムンゼンの成功とスコットの失敗
 ノルウェーは新しい独立国家の確立を目指し個人も精一杯生きることが重要であるとの考えが、多くの国民に共有された。両極探検にその精力を注いだのがアムンゼンである。
 しかし用意周到であった。何年もの年数をかけ、自分がスキー、犬そり、毛皮の装着を習得し、雪質の見極め、天候の観察と対応、人選を徹底して洗った。アムンゼンは考えを常に説明し隊員と共有した。部下を重要な人間としてその専門性を尊重した。してその成功は国民が大いに喜んだ。
 一方、スコットは彼自身両極の探検の経験も操船の経験もなかった。犬も扱いやスキーの操作もできる人も乏しかった。科学的調査に時間を取られ、南極点制覇の目的が薄れた。そして、自身経験不足からリーダーシップを発揮できなかった。しかし他の隊員には自由を与えず、自分が目立つことが重要であった。英国には組織として英海軍の威信がかかっていた。スコットの目的は、名誉と英海軍内での出世であった。
 スコットの死は、南極点への到達2番となり、落胆したことが原因とのロマンチックな筋書きができ、一方アムンゼンは、単に幸運であっただけとの評価が定着した。ナンセンは「犬を連れて行けとの私の助言を聞いていれば彼は生還した。」と語った。


左スコット、右アムンゼン
左スコット、右アムンゼン


カワシマのホームページへ