世界と私

第6回 北極圏の発見とナンセン

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年4月17日


ノルウェーの英雄ナンセン
 私がフリチョフ・ナンセンを知ったのは、1988年にイタリア・ローマの国連食糧農業機関(FAO)に赴任してからだ。FAOの海洋水産資源の調査船がノルウェーの所有する「フリチョフ・ナンセン号」(写真)であった。2013年8月にノルウェー訪問の際、この調査船(1444トン、56.m)が活躍中であること。
 ナンセンは1861年に弁護士の子として生れたが、ノルウェーの首都の郊外に育ち、自然の中で遊び、スキーが上手であった。大学で動物学を専攻するが、その興味は段々に広がり、海洋学と北極を専攻する。その後ベルゲンの博物館で学芸員を勤めながら、北極探検の計画に挑戦する。1888年ナンセンは人類史上初めて氷に覆われたグリーンランドの西海岸から東海岸への横断に成功する。この成功はエスキモーの使っていた犬を使い、スキー使いそして、北極を良く知るサミー人(ラップランド人)の知識を活用したことによる。
 1898年には、誰もたどり着けなかった北緯86度13.6分、ほぼ、北極点まで到達した。無事に帰還すると、ノルウェーの国民は彼を大歓迎した。これは、英、加、独、米とスウェーデンなどとの間で国際的に北極点探検を争い、この競争に勝ったことで国民が大いに喜んだものである。


北極とは何か
 北極はとは何か。夏に一日中太陽が沈むことがない北極圏は、北緯66.33度以北を言う。この範囲に住む人は非常に少ないが、ムルマンスク(人口32万人;ロシア)や私が何度も訪れたノルウェーのトロムソ(6.2万人)がある。北極は地球の自転軸と地球の表面が交わるところで、磁気の方位が示す北磁極は約1000キロ離れている。北極は一年中氷におおわれる北極海にある。日本人にはなじみが薄い。ロシアやアラスカとカナダに囲まれる。それが障害となり、直接の関心を持ちにくい。しかし、いまも、日本人には国際司法裁判所の判決で時の話題となった南極が、はなじみが深い。日本人による北極点制覇は1974年の上村直巳氏があげられる。
 しかし、ノルウェー、英やカナダ、ロシアとアメリカにとっては、隣接する地域であり、領土的野望もあり身近な存在である。
 しかし白人にとっては未知の空間で神秘の世界であっても、アラスカ、カナダやグリーンランドには先住民がいる。北極圏と北極はかられにとって、征服すべきところで、いくつかの目的がある。
 一つは、探検である。人類が未知の世界を探検して、未知の部分を少なくしていくことである。そして最終的には北極点を征服することである。別の目的は、地域現象、気象、地形や動植物が未知のものであり、知りたい、知見として集めたい。科学的な情報を集積である。


北極探検の歴史とナンセンの偉業
 先ず、1596年に蘭のバレンツがロシアのノバヤゼムリャ島を探検した。1610年英のハドソンが現在のハドソン湾から北緯80度23分に到着。
 1741年、ロシア人ベーリングがシベリアからアラスカに渡るが病死した。
 1896年 フリチョフ・ナンセンは当時としては最も北極に近い86度13分に到達し無事に帰還した。
 1909年 英ロバート・ヒアリーが北極点に到達した。


ナンセンとその後の生き方
 ノルウェーはスウェーデンからの独立と国際的地位の確保に、国家も国民も多大の努力を注いだ。北極探検の英雄のナンセンもノルウェー政府代表としてスウェーデンと独立の交渉に参加し、達成した。その後は、駐英大使に、第1次世界大戦後は国連高等弁務官に就任し、難民問題の解決に当たりノーベル平和賞を受賞した。
 彼は、アムンゼンにも英のスコットにもアドバイスした。スコットは自分の助言を聞かなかった。アムンゼンはナンセンの経験に学んだ。スコットが南極で遭難に遭遇した折、ナンセンはスコット夫人との情事を持った。彼は、その以前から妻との折り合いが悪かった。スコット夫人にも求婚を拒否された。成功者でも人生とは、わからない。真面目に生きよか。


ノルウェー政府の調査船 フリチョフ・ナンセン号;最下位
ノルウェー政府の調査船 フリチョフ・ナンセン号;最下位


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