世界と私

第9回 米憲法の父マジソン大統領と米不介入主義のモンロー大統領

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年6月1日


日本人が知らない第4代大統領マジソンは米民主党の創始者
 ジェイム・マジソンは米国第3代大統領トマス・ジェファーソン(1801年〜1809年)の後を受けて第4代大統領(1809年〜1817年)に就任した。彼は、ジェファーソン大統領のもとで国務長官を務め、連邦政府の権力を抑制することを目的とした共和党(当時)の創設者である。現在の民主党の元となる。連邦政府の権力基盤を強化しようとするのは連邦派(フェデラリスト)だ。彼ははじめはここに近かった。


ニューヨークのマジソン街
 私が小学生の頃プロレスが大変に盛んで、米国からの中継の会場はいつも、マヂソンスクエア・ガーデンからであった。
 1982年7月に訪れたニューヨーク・マンハッタン島に東西に走る通りが「ストリート」(通り)で南北は「アベニュー」(街)であることを知った。5番街(高橋真梨子の歌に「五番街のマリーへ)がある。)の隣にマジソン街(写真)が走っていた。
 当時はマジソン大統領に因んでなづけられたとは、知る由もなかった。アメリカ合衆国は建国たった240年の国であり、地名は功労者の名をつける。ニューヨークの国際空港はジョン・F・ケネデイー大統領に因む。国内線空港はニューヨーク元市長に因みラ・ガーディア空港と呼ばれる。


米憲法の父;連邦政府の設立
 マジソンは米国憲法の草案を書き批准を推進し、憲法の父と言われる。
 米は1776年に独立宣言したものの、英との戦争が行われ、米大陸には、スペインやフランスが植民地を持っていた。また、原住民が英と組んで、米国に戦争をしかけた。
 そこでワシントンらは連邦政府を設立し独立宣言した13州の結束を図ろうとした。米軍の兵力を備え、英と戦う力のため権力の集中が重要だった。そのため、米憲法の制定が必要で資金を調達する米銀行の設立が必要だった。この考えが連邦派(フェデラリスト)である。マジソンは初代大統領ワシントンや国務長官アレクサンダー・ハミルトンらと米憲法の各州による批准を推進した。彼の出身州バージニア州は最後まで反対であったが、ワシントンを大統領にすることを取引し批准した。
 しかし、憲法が制定され連邦政府が設立されると、彼の対応が一転する。ジェファーソン大統領とともにハミルトンやワシントンらの連邦派と対立し政府の力を抑制し、州の力を強化すべきであると方向転換する。そして、共和党を設立する。彼はジェファーソンの後の第4代米国大統領を二期務める。処世術に長けた人物と言われる。


モンロー宣言の第5代大統領(1817年〜1825年)
 ジェイムス・モンローもジェファーソンの流れをくむ。彼は、ジェファーソンから法律の手ほどきを受ける。その後、マジソン大統領のもとで2期国務長官を務め、ルイジアナの仏からの獲得にも貢献する。
 ナポレオン戦争後、自由の風が吹き荒れたが、オーストリア宰相メッテルニヒが保守反動に舵を切った。欧州諸国は米大陸にも保守的な体制の確立のために介入した。これに対し、自由を大切にする米は反発し、モンロー大統領は1823年の議会において、「米国は欧州大陸の政治に介入しない。欧州も米大陸に介入をすべきでない。介入は米国への敵対行動とみなす」と宣言をした。米は安定期に入る。


集団的自衛権と日米関係の在り方
 国力が充実するにつれて、米はフィリピンにも介入し、中国の門戸開放まで主張する。モンロー主義を放棄し介入主義に代わる。主張とは時代とともにかわり、自国の都合により変わる。
 ところで、日本の防衛を見たとき、東京の航空管制が完全に米軍にコントロールされている。首都は制圧される。普天間や辺野古の沖縄基地問題もある。日本は更に米軍に協力する集団的自衛権である。在日米軍を含め真の自立した日米関係全体の議論し結論を導くことが必要と思う。


マジソン街があるニューヨーク・マンハッタン島の夜景
(写真 マジソン街があるニューヨーク・マンハッタン島の夜景)


カワシマのホームページへ