世界と私

第11回 国際・捕鯨交渉とアメリカ合衆国

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年7月4日


私と米国交渉との出会い
 1985年米国エール大学留学を終え帰国後米交渉担当の課長補佐を任ぜられた。また、捕鯨の交渉は1991年8月まで3年間のローマでの在イタリア大使館勤務を終え、農林水産省水産庁へ帰任してからである。ローマに在任中は国連食糧農業機関(FAO)の会合で、日本は米国の政府代表部とよく会合し議論した。この時の人脈が現在の私に役立つ。アメリカは懐が深い。


ニクソン政権から反捕鯨
 ところで、1970年代のニクソン政権の時代からは米国は明確な反捕鯨国であった。
 私が捕鯨に係った1990年代は米国にとって捕鯨は重大案件で政府代表はNOAA(米国海洋大気庁)長官クナウス氏であった。1992年捕鯨の再開の前提となる「改訂管理方式」の完成が間近であった。そして、「ク」長官は「改訂管理方式」の国際捕鯨委員会での採択を支持する表明した。其の後ほどなくして、彼は解任された。


ベーカーNOAA長官
 1999年IWC総会がカリブ海の島グレナダで開催された。私は、総会第2日に極度の疲労から、ノルウェーとアメリカ政府代表団主催のパーティーに、欠席した。ホテルの一室で寝て休息を取っていたが、夕方になり、少し体調が回復した。そしてグレナダの青い海とホテルのプールで泳ぎたくなり、泳いでいるうちに体調が戻った。本当に不思議であった。子供のころから、陸前高田市広田町の海でよく泳ぎ、大好きであった。プールで泳いでいた私をパーティーが終わり通りかかったベーカー長官が見つけ「小松さん、あなたは米国主催のパーティーを欠席し、水泳を楽しんでいますね。」と笑顔で話しかけた。私は、「米国だけでなくノルウェーのも欠席しました。体調が悪かったのですが、泳いだら元気になりました。不思議です。」と。何気ない率直な会話である。気持ちが通じた。


サケマス交渉での誠意ある米の対応
 日本はアリューシャン諸島の米200カイリ内での母船式サケマス漁業の操業の許可を米国政府から得ていた。
 1986年6月1日、函館から、許可証を持たずニチロ漁業、大洋漁業と日本水産の母船式さけ・ますの船団は出航した。米200カイリに日本の船団が入域する6月10日までに許可証を出してもらう交渉をした。しかし、突然に10日には間に合わないとNOAAのビーズリー国際部長が言い出した。わたしは「日本のさけ・ます船団はすでに函館を出航して、アアリューシャン諸島に向かっている。許可を出すことを米国は約束済みである。責任を果たせ。」と激しく詰問した。翌日NOAAは許可を出し、コーストガード航空機で直接日本の各母船に届けてくれた。誠意ある対応である。


「私に喋らせなさい」
 2002年下関IWC総会(写真)で、アイスランドのIWCへの再加盟をめぐり総会の議論は紛糾した。アイスランドの異議申し立て付き加盟は認められないと米国など反捕鯨国が強硬に主張した。このことで私が発言しているのに、シュミッテン米IWC代表(水産庁長官)が割り込んできた。失礼極まりない。うるさいので「私は黙れ」と発言したかったが、穏やかに「Let me speak 私に喋らせなさい」と言った。この発言が翌日の新聞やテレビで大きく取り上げられた。米国に対してよくそこまでものが言えたとの論調であった。


信頼関係と外交
 シュミッテン長官とはそれまでも何度も会合しお互いがよく知る仲だった。率直で普段の相互理解があった。
 外交・交渉も問題が生じた時点で、既に深く進行している。従って不断のその問題に対して相手国と率直に対話しておくことが必要である。そうすれば、問題が生じても決定的な亀裂にない。捕鯨は日本の首相と米大統領の間の問題としてとり上げられたが、双方のトップが忌憚なく対応された。
 それを支えるのが日本国の裏方たる官僚の責務である。わたしの知る限り最近は其れが大きく不足している。日中と日韓の関係を懸念される昨今特にその感を強くする。


第16代米国大統領アブラハム・リンカーン
(写真;2002年下関IWC総会での日本代表として発言する筆者)


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