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太平洋を取り巻く国々と私

第2回 キャプテン・クックの探検

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年9月6日
穏かな海 太平洋

1519年9月スペインのセベリアを出発したマゼランの一行は大西洋を南下して、ホーン岬を通り太平洋を横断して香料を求めモルッカ島にたどり着く。5隻で出航した船団は1隻となり、1522年9月セベリア港に戻る。太平洋の名はマゼランが付ける。この広大は太平洋を嵐に一つも合わずに航海したことによる。今年、南緯10度にあるミクロネシアを訪れた私も実感する。全くの凪が何日も続く。本当に穏やか(Pacific)である。(写真)日本人で初めて太平洋横断を果たしたのは、伊達正宗の命を受けたサン・セバスチャン号の支倉常長と見られる。


経度の計測と太平洋の地図の作成

緯度の計測は初期の段階から天球の星と太陽を観測し可能となったが、経度の観測は至難の業であった。大西洋や太平洋への航海は、島と島の間を推測航法に基づいた危険なものだった。経度を計測する技術が、長年の時計技術者の努力により開発される。これが18世紀の半ばにハリソンにより開発されたクロノメーターである。

1768年英国の王立科学協会は、キャプテン・ジェイムス・クックを「太陽の上を金星が通過すること計測するため」にタヒチに派遣した。真の目的は、現在の豪東海岸とタヒチの間の地勢を明らかにし英統治を進めることであった。併せて太平洋の海図を作成するためである。このクックの航海で作成した詳細な海図は19世紀になると、イギリスと米国の帆船捕鯨船の大量流入をもたらし、北米のラッコや干鮑などの貿易船の大量の航海をもたらす。


クック以前の太平洋

1726年にアムステルダムで発行されたオランダ人のアベル・タスマンの航海後の地図によると、豪とパプア・ニューギニアは陸続きで、豪西海岸線はわかったが現在の東岸は全く分からない。豪大陸は当時はニュー・オランダと呼ばれていた。ニュージーランドの南島西海岸線は判明したが北島と東海岸は皆目わからない。そして彼の名が冠されたタスマニア島の3分の2が分かった。仏のブーゲンビルや英のバイロン提督の航海後もどうしても明らかにすることはできなかった。


クックの豪東岸とニュージーランドの発見

クックは石炭を運ぶ運送業の貧しい父のもとに1728年に生まれた。貧困家庭で、高等教育は受けられなかったが、家業を手伝い海運業に従事し、その後英海軍に入隊した。1756年からの7年戦争の間、カナダのニューファウンドランドで功績をあげ、地図学、天文学や航海術を習得した。クックには重責を果たす能力と経験が備わった。

1768年8月英プリマスをエンデバー号で出発した。これを含め3度の航海に出る。タスマンはできなかった豪大陸とニューギニアの間のトーレス海峡を発見しその2つが離れた大陸であることを証明した。豪の東岸とニュージーランドの北東と全域も発見した。また、1774年には南極半島とロス海の中間の南緯70度を超えた南氷洋にも達している。これらの能力と挑戦者精神とその功績には驚くほかはない。これで「Terra Australis Incognita」(未知の南の大陸)の存在の可能性はしぼんだが南極大陸と豪大陸とに分かれる現実が判明した。一方、このころ人々は冒険小説として、この時代の島の探検を好んだ。例えばスウィフトの「ガリバー旅行記」やデフォーの「ロビンソン・クルーソー」などである。


太平洋諸国への影響

そして太平洋諸国と豪とニュージーランドに関する膨大な科学的知見が航海によってもたらされた。そして貿易や捕鯨業が興って富はもたらしたが、太平洋諸島は英、仏と独を中心に後発の米とに支配されることになる。自然に任せて悠々と生きたこれらの国々の人は銃、酒、セックスと病原菌にまみれて、人口が大幅に減少し、一時は存亡の危機を迎えた。


波ひとつない穏やかな太平洋のど真ん中のミクロネシアのポンペイ島と朝日

(写真:波ひとつない穏やかな太平洋のど真ん中のミクロネシアのポンペイ島と朝日)


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