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太平洋を取り巻く国々と私

第15回 ニュージ―ランド国家形成と捕鯨

アジア成長研究所
客員主席研究員 小松正之
2015年4月4日
豪と一体のニュージーランドの入植

英国からのニュージーランドと豪への入植の時期はほぼ一致する。英国にとっては豪もニュージーランドも太平洋の島々で差はないのである。従って豪がポートジャクソン、後のシドニー湾に入植地を設営して以来、ニュージーランドへの接近がはじまった。1789年食料の確保を求めて、豪とニュージーランドの中間に位置するノーフォークアイランドとその後ホバートに入植地ができ促進される。しかし、距離的な要因だけでなく欧州における戦争によって、諸資材へのニーズが高まったからあった。この頃欧州などでは、英仏戦争、米国の独立戦争、フランス革命と仏・独での2月革命と3月革命戦争が相次いだ。


戦争資材の獲得と捕鯨の振興

これらの戦争の遂行のために、資材を必要とした。木材や亜麻とアザラシや鯨油が潤滑油や灯油して必要であった。アザラシ革の帽子もロンドンでは人気であった。ニュージーランドは、これらの資材が豊富にあった。1788年に豪ニューサウスウェールズのフィリップ総督に対して、英国政府は、これらの資材を入手するように命じた。しかし、囚人を含めて、労働人口は非常に限られていた。また、囚人たちは、少しでも、豪を離れて自由な生活を営みたいと考えた。19世紀にシドニーとホバートはアザラシ漁と捕鯨基地となった。これらの地は豪の捕鯨船、英国、米国とフランスなどの捕鯨船の基地となった。

初期のニュージーランドの入植者は、横暴な船長から逃げ込んだ囚人であった。ニュージーランド沖で操業する捕鯨船に織り込み、マオリのコミュニテイーに入り込んだ。そこでは彼らはPakeha Maoriと呼ばれた。白人マオリであろうか。彼等は北島のオークランドのHauraki、The Bay of Islandsや南島の南端の部落Murihikiに定住しマオリとの女性との間に混血の子供をもうけた。

彼らは、マオリから風習に基づき、保護を与えられ、他方、園芸や家畜の育成などの技術を教え貿易や宗教使節との通訳として仲介の役割を果たした。


捕鯨の活動が社会を変える

沖合の捕鯨業が1830年代にその活動はピークを迎え、基地には地域社会が形成された。たとえは1830年には30隻が常時The Bay of IslandのKororareka港に停泊し300人が常時上陸していた。そこで物資や水など供給のほかにアルコール、食事や売春が提供された。マオリは必要な野菜や豚を飼育始めた。1835年にこの地を訪問した「種の起源」の著者チャールズ・ダーウィンは英国人の住人を「社会の最も屑」と表現した。

沿岸基地捕鯨がもっとマオリ社会に影響を及ぼした。捕鯨基地は1820年代から、北島と南島の間のクック海峡、最南端のフォーボー海峡や本島から700キロ沖合のチャタム島のマオリ集落の近くに形成された。マオリ女性は白人のために働き捕鯨者と結婚した。これらの家族が後に重要なマオリ・ファミリーになる。


遥か700キロ先のチャタム島を訪問

私は2008年にクック海峡の捕鯨基地を南島のネルソン市から訪ねようとした。南島西北端のGolden Bayの集落であった。とても遠く、薄暗くなりギブアップした。その翌年7月、ニュージーランド人もめったに訪れないチャタム島を訪ねた。離島での水産業振興策を研究するためだった。ここで捕鯨が行われていることを初めて知った。チャタム島の捕鯨の出版物があった。この島はキャプテン・クックの副官のバンクーバーの探検隊の指揮官ブロートンが1791年に発見した島である。

このように捕鯨はニュージーランド初期の社会、経済と文化の形成に大きな影響を与えた。捕鯨があったから、マオリの社会とPakehaの白人社会が次第に、社会・経済活動と婚姻を通じて融合を果していった。捕鯨があったからこそこの国があることは事実であるが、そのことをニュージーランド人はすっかり忘れているのも事実である。現在クジラの資源は豊富で、これを捕獲せよとの声もニュージーランド国内にも強い。


ニュージーランド・チャタム島の海岸風景

写真 ニュージーランド・チャタム島の海岸風景 2009年7月著者撮影


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