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太平洋を取り巻く国々と私

第16回 マオリと白人(パケハ)

アジア成長研究所
客員主席研究員 小松正之
2015年4月17日
ニュージーランドと出会い

人口447万人で日本の約72%の面積27万平方キロの島国ニュージーランドは自然が美しい。映画ロードオブリングもこの国で撮影された。私にとってのニュージーランドは捕鯨に交渉でたびたびやりあった。2000年当時女性首相ヘレンクラーク氏に名指しで同国の新聞で「Masayuki Komatsuで始まる…」論説で攻撃される栄誉を得たことがある。2014年6月に訪問して第1次産業省とケルプなど水産資源に関する会合を持った。


マオリとは

マオリとは彼らの言葉で「普通の人」との意味である。彼らはニュージーランドに居住するポリネシア系の人々で、言い伝えによれば神秘の地から、12〜14世紀に波のように押し寄せた。実際は800年ごろから徐々にポリネシアから渡ってきた人たちをいう。

マオリは精神・魂を大切にする。森は食料と保護を与えてくれ、また魚介類も神の恵みと考えた。ある土地は神が宿り、そこからは何も取ってはならないと考えた。マオリ宗教は精神と肉体の働きの調和である。全ては、あらゆるものの統合・調和との考えである。従ってマオリは大変に受動的な人々であった。

ニュージーランドはマオリの言葉ではアオテアロアと言う。「白く長い雲がたなびく土地」という意味である。これは現在では、ニュージーランドと並んで正式な国名である。ニュージーランドはすべての場所の標記が2言語で表記される。英・マオリ語標記である。マオリ文化・歴史に対する尊重が復権している。


初期の白人(パケハ)

白人でニュージーランドに最初に居住したのは横暴な船長の船から逃れた船員たちである。刑期を終えない囚人が逃げ出したものであった。これらの人々はパケハ・マオリと呼ばれ、マオリの社会に溶け込んだ。彼らは北島のアイランド湾の地域他に居住し、マオリの女性との間に子供をもうけた。マオリの習慣に従って生活し、マオリは彼らを保護した。マオリに自分たちが持っている園芸や畜産の技能を伝達し、欧州人との交易や布教者との間の通訳を務めた。これらの人々は1798年や1804年すでに記録されている。商業活動がきっかけで交流が開始される。1840年頃までには、パケハは、マオリを刺激し彼らは亜麻や木材を産出するようになった。


パケハの活動の強化

シドニーに英人が入植後50年間に、英人はニュージーランドと。貿易、捕鯨、アザラシ漁とキリスト教布教活動を通じてつながった。マオリの人々もシドニーやホバートそしてロンドンを訪問した。英国教会やメソヂスト教会の滑動がロンドンとニュージーランドの距離を短くした。しかし、一方で白人は徐々にニュージーランドに移住し、彼らは、自らとともに、マスケット銃と病気と酒をもたらし、マオリの文明をことごとく破壊した。

1832年に豪の葡萄栽培家のバスビー氏が民間大使として、ニュージーランドに赴任したことが公式なかかわりへの第一歩となった。彼は式典に参加した22名のマオリの酋長に対して毛布やタバコなどを贈った。


マオリの独立宣言

彼は、1835年ワイタンギで酋長を集めて、ニュージーランド国旗の制定儀式を行ったり、部族連合によるニュージーランドの独立宣言文に署名させた。酋長たちは、独立宣言の内容を理解しなかった。34名の部族長が署名した。

ワイタンギは北島のアイランド湾の入り口にある小さな町である。この街はのちに英国とニュージーランドの部族がニュージーランドを英国の植民地にすることに合意する内容の「ワイタンギ条約」を結んだ土地である。ここは同国第1位の都市オークランドの北にある。マオリの酋長たちは条約の正確に内容を知らされなかった。英国は1840年までにニュージーランドを自らのコントロール下に置き、1872年にはすべての戦いは終わりマオリの土地は収用された。現在では約9%がマオリである。


ウェリントンにあるマオリ博物館

写真 ウェリントンにあるマオリ博物館 著者撮影 2014年6月


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