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太平洋を取り巻く国々と私

第22回 アラスカでの交渉とコジアック島

公益財団法人東京財団
上席研究員
小松正之
2015年8月17日
米国200海里での日本漁船の操業

アラスカには何度行ったかは数えきれない。1985年4月農林水産省の水産庁国際課で日米交渉を担当を命ぜられてから、アンカレッジ、ホーマー、コジアック島とバッチハーバーがあるアリエスカ島、そして州都ジュノーに行った。最も多くは、アンカレッジとジュノーであった。アンカレッジでは、アラスカ沖の漁業資源の割当を決定する北太平洋漁業管理委員会が1年に5回開催された。最重要は12月に開催される委員会で、そこで漁獲割当量を決定する。その決定後、米国商務省は自国内漁獲割当と加工向けの割当、と余った場合には外国に漁獲割当を与えた。私が、水産庁の国際課で北米の漁業の担当の課長補佐に就いた時には、全体の漁獲総枠が200万トン(この数字は30年後の現在も変わらない)そのうち100万トン以上の割当を日本に与えた。本当におおらかであった。私達水産庁職員は、外国向けの漁獲割当を多く得るため、米国の業界、政府と科学者に働きかけた。そのために必要な場所を訪問し協議した。ジュノーは連邦政府NOAA(米海洋大気庁)の水産局支局やアラスカ州の漁業狩猟局があった。時には州知事にも面会した。当時の知事はステイーブ・クーパー知事(任期が1986年12月から4年)であった。彼から、エスキモーがアザラシの身を切り刻むグールー・ナイフを土産にいただいた。


200海里の設定

1970年代国連海洋法会議では、排他的経済水域の議論が活発だった。一方で、米国は1976年3月に一方的に、漁業保存管理水域として、200海里を宣言した。このことにより世界は、大きく200海里水域の設定に動くことになった。日本はあまりに膨大な遠洋漁船団が世界の海で操業していたがため、世界の動きに大きく後れを取った。当時12海里の漁業保存管理設定の動きが主流の議論であったが、12海里でも日本漁船の操業が大きく制約されるとの危惧があり、日本は反対していた。12海里に賛成していれば、現在の様に日本の遠洋漁業船団が、ほぼ全くなくなることもなかったろう。


日本にとっては最も重要なアラスカ沖の漁場

日本にとって、北洋漁場は、最も重要な漁場であった。日露戦争で勝利して、カムチャツカやオホーツク海などのロシア海域の漁業の権利をロシアから得た。それが第2次世界大戦の敗戦後も、サケマス漁業、カニ漁業と底引き漁業の操業を行った。それらも年々、ロシアの締め出し政策によって操業は縮小した。 米水域も同様であった。戦前から、日本漁船はベーリング海まで出かけサケマスを漁獲して米国を驚かせ、戦後直後のトルーマン大統領の大陸棚宣言につながった。

ところで、1976年にはマグナソン・ステーブンス法(MSA)が成立し、米国は自国の漁業の振興に努める。しかし、米国漁業の進展がほとんど見られず、ルイジアナ州選出のブロー下院議員は米国漁業促進法案を提出した。これは外国漁業に、米国漁業の振興の協力を義務付けたものだった。1983年にはMSAが改正され、米国漁業の振興と外国漁船の締め出しが明確になった。


コジアック島で下痢

1986年8月アラスカ湾にあるコジアック島(写真)で、北太平洋漁業管理委員会が開催された。私も参加した。ここには、旧大洋漁業のウェスト・ワーズ・シーフードの水産加工場があった。日本食レストランなど一軒もなく、中華料理店が一軒あり、ご飯は入手できるが、無性に会議の疲れで日本食が食べたくなった。そこで、水産加工場で筋子をいただき、其れと中華料理店のご飯で食べたら最高である。しかし、保存着色用に次亜塩素酸ナトリウムを使っているので、翌日まで、一日待つように言われた。待ちきれず私は夜中に筋子を、たくさん食べた。てきめんに下痢になり、のた打ち回った。本当に困った。数日後には治ったが。プロの助言は聞くものだ。



コジアック島の漁船団;写真Wikipediaより


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