私が見た世界

第3回 自由への不屈の闘士;ネルソン・マンデラ

政策研究大学院大学
小松正之
2013年12月15日

子供の頃、親の頑固さから学ぶ不屈の精神
 2013年12月5日、ネルソン・マンデラ南アフリカ元大統領が死去した。95歳であった。彼は1918年に南アフリカのトランスキ州に生まれ、父親は、土地の首長であり、南ア政府からもその土地の代表として任命されていた。父が付けた本名は「ロリフラフラ」といい、「問題を起こす人」との意味だ。ネルソンという名は小学校の先生が勝手に付けた名前だ。あるとき父は、部族の者から、牛の所有権の紛争を持ち込まれ、酋長たる自分の責任で解決しようとしていたところ、政府の地方局長から、説明を求められた。彼は自らの責任に属しその必要がないと主張して、政府から解任された。そして首長の地位と収入源も失った。筋を曲げなかった。同様の傾向はマハトマ・ガンジーの父親や米国の公民権運動に立ち上がったマルチン・ルーサーキングJrの父親にもみられる。頑固で正当なことには筋を曲げずに、自分の不利になっても貫き通す。子は親の姿を見て学ぶといえる。


アパルトヘイトの廃止に立ち上がる
 マンデラ氏は、南アの反・アパルトヘイト(1948年国民党政権により確立された。黒人・有色人種を白人から隔離分離して、選挙権も与えられない。居住地も別々にし差別)運動に身を置いた。ガンジーの唱えた「非暴力の抵抗(サチア・グラハ)」をその運動に取り入れる。南アの黒人らの置かれた地位はあまりにも低く人間としての扱いをされず、基本的な人権の確立のために立ち上がったのがANC(アフリカ民族会議)でその主導者はマンデラ氏やウオルター・シスルー氏ら(写真)である。


自らの正当性を主張して法律大学を退学処分に
 マンデラ氏は叔父の強い勧めもあり、大学に進学し法律を修めた。しかし、彼は法科専門大学で学長との間で論争する。マンデラ自身何も落ち度がない事件であったが、事を丸く収める方針の学長は、マンデラに謝罪を要求した。そうすれば、退学をさせないとの学長の取引が提示されたが、それは筋が通らないと、マンデラは断固拒否する。そして、退学を余儀なくされる。彼は、その後夜学で不足分の教科を履修して、弁護士の資格を取る。教育水準は黒人としては著しく高い。1952年に弁護士事務所を開設する。これは、アフリカの黒人による黒人らのための唯一の会社であり、黒人の解放のための活動が始まった。


国家反逆罪で27年間の刑務所生活
 しかし、南ア政府は、突然マンデラを含む大量のANC活動家などを政府転覆を企てた国家反逆罪で逮捕する。裁判ルールも白人が作り、裁判官も白人で闘争は、困難を極めた。無罪となり釈放されたが1962年ふたたび逮捕投獄され1990年までの27年間も刑務所での投獄生活を過ごした。そのうちの18年間はケープタウンの沖の孤島ロべン島の最も過酷な刑務所である。彼は、ここで、規則正しい生活を送り政治囚人の処遇の改善を求め続けた。外部からの情報の入手にも妻などの支援を得て努力した。そして、妻らは外国にアパルトヘイトの不当性を訴えた。マンデラ氏らの運動は次第に日の目を見始め、国際的な南ア政府の政策に対する非難が高まり、ANCの活動も奏功した。


不屈の戦いで解放 黒人初の南ア大統領へ
 1990年、デ・クラーク大統領はついにマンデラ氏を釈放した。国際的な圧力や旧ソ連邦の崩壊や民主化を求めた中国の第2次天安門事件も影響した。しかし、ANCとネルソン・マンデラ氏の不屈の魂と正義の戦いが、結実した勝利であると言えよう。マンデラ氏は1993年ノーベル平和賞を受賞し、1994年には黒人と有色人種のすべ手による総選挙が実施されマンデラ氏が大統領に就任し、デ・クラーク氏が副大統領となそして彼は権力に固執することなく1期で大統領職から退いた。

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