私が見た世界

第4回 アメリカとは何か;独立宣言と政府の成り立ち

政策研究大学院大学
小松正之
2013年12月24日

私の見た米国の原点
 私と米国との接点は(1)1982年7月から2年間の米エール大学経営学大学院での勉学(2)1985年から3年に渡る日米漁業交渉と1991年以降の捕鯨における米国との交渉であった。
 その後幾多の米国の建設者と著名人の思想と実績を調べ上げることになる。米国は理想主義と現実的な対応とを併せ持つ国であることが、これらのプロセスで身に染みる。


独立記念日
 米の独立は1776年の7月4日である。この日も米国は英国と戦争状態にあり、1782年にサラトガの戦いで指揮者の将軍を代え偶然の様に大勝してから、フランスが米国と協力し、英と講和を結ぶ1783年まで続くことになる。歴史とは不思議だ。
 毎年、7月4日になるとフィラデルフィアやワシントンDCでジョン・アダムスが主導し若き33歳のジェファーソンと教養深いベンジァミン・フランクリンの起草になる「自由と平等」を謳う「独立宣言」が多くの人に購入される。独立宣言をしても、その後独立を達成しても米政府の確立と安定はおぼつかない。1620年に清教徒が入植した。ムガール帝国のシステムを活用できたインドと異なり、全くの無から米植民地はつくられた。プロテスタント信者は旧教会の権力を打破する精神と勤勉を旨とし、働く意欲と能力があるものが成功し、それを讃えられる社会の創造とその社会と人民を守る政府の樹立をめざした。


米国政府と大統領
 初代大統領はジョージ・ワシントンである。彼に因んで首都が建設される。(写真:ワシントンの国会議事堂)大陸軍の総司令官に若くして任命される。彼は自分にはカリスマ性はないと考えていたが、英国など外敵と対峙できる軍隊と連邦政府の必要性を感じていた。第2代大統領のジョン・アダムスもその一人で、中央集権的な政府が必要であるとの考えで、これらの思想と実践を行ったのが、初代大統領のもとで国務長官を務めたカリブ海生まれのアレクサンダー・ハミルトンである。連邦政府の財政基盤を整えるために、酒税を導入し、国民の反乱を引き起こす。それを大統領は武力弾圧する。彼らは、英国の君主制を習い、強力な中央政府の必要性を謳い、北部の英国貿易の業者などの支えがあった。

ワシントンの国会議事堂
ワシントンの国会議事堂


共和派と人民の政治
 独立宣言の起草者で、若き日から、優れた教養と教育に恵まれた第3代大統領トマス・ジェファーソンはハーバード大学に次いで古いウイリアム・メリー大学(現在のバージニア大学)で学ぶ。彼はエウクレデスやローマの歴史などを勉強し、科学や天文と乗馬と博物学などに造詣が深かった。どんな客人が来てもあらゆる対話ができた。彼はもっと民衆の声を反映させた民主主義の政府が必要との考えだった。連邦派は英の君主制の政府を作り出すとの恐れを抱いた。彼は、経済力を持ち出した中産階級や南部の農園の経営者の支持を得て、1800年の大統領選挙では第2代ジョン・アダムス大統領をアーロン・バー副大統領候補とともに破り、勝利する。彼らは共和派と呼ばれ、その思想と実践は連邦政府の権限を抑えようとしたが、英国との戦争が再び生じ、必ずしも実行できていない。


南北戦争と南北の対立
 共和派に敗れた連邦派は北部の独立州に多く、その後も米国からの分離を試みた。一方で、共和派にとって有利なのは南部はフロリダとニューオリンズの獲得とルイジアナの獲得で勢力が拡大したことだ。北部は、相対的に力が弱くなる。そして連邦派は中央政権の強化に代わり、南部の問題である奴隷解放を唱えた。米国内の覇権争いである。形を変えた戦いである。これが1860年の南北戦争へとつながる。そして60万人以上の死者が出る。第2次大戦の倍である。


ケネディの理想と現実主義
 ケネディが大統領候補の時、トルーマンは彼の年齢を問題にした。若すぎると。彼は「ジェファーソンは33歳で米独立宣言を起草した。年ではなく、経験と幅広い教養が重要であると。」
 さて、現在の日本に、ジェファーソン大統領やケネディ大統領に匹敵する、経験と教養があり、理想と現実主義を兼ね備えた政治家は果しているのだろうか。


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