私が見た世界

第8回(最終回)アウンサン・スーチーとミヤンマーの民主化の行方

政策研究大学院大学
小松正之
2014年1月23日

「ビルマの竪琴」とインパール作戦
 1985年に私は映画[ビルマの竪琴]を見た。水島上等兵が捕虜として捉われた収容所の近くで「竪琴」を弾くシーンがある。
 ビルマ戦線の戦いに「インパール作戦」があった。米英軍からビルマを通過して蒋介石軍の中国に提供される物資補給の「援蒋ルート」を中断するのが日本軍の目的であった。10万人派遣された日本軍のうち3万人が戦死、2万人が戦傷、戦病で後送。残り5万人の半数は病人だった無残な結果だ。無茶苦茶な戦術と指揮を執った将官と大本営に翻弄され、ビルマ全体で19万人の日本兵が命を落とした。
 2013年5月、ミヤンマーに行った。
 訪問の目的の一つは戦没者の霊にお参りすることだった。慰霊碑の前で合掌した。
 第2にアウンサン・スーチー氏のリーダーとしての人物に強い関心を持ったことだ。


4万年の歴史。統一国家は9世紀から。
 ミヤンマーは1885年の英国統治時代から1989年までビルマと呼ばれ、人口は約62百万人、面積は67.7万平方キロメートルで日本の約1.9倍である。
 ミヤンマーは起源を4万年前の旧石器時代に遡る。イラワジ川が北から南に流れ、中央地帯が農業食料生産地帯として重要である。
 古代文明の時代には、現在にミヤンマー人の祖先のチベットーミヤンマー語族“ピュー族”が定着した。この部族の影響は9世紀半ばまで続く。
国家統一の形が出来上がるのは9世紀の半ばから14世紀の初めまで続いたパガン朝(Pagan)の時代である。この時代にミヤンマーは黄金期を迎え、その後の王朝のモデルとなる。1364年にその親類によりアバ朝(Ava)がパガン朝をまねて造られた。この時代に南部ミヤンマーにペグ朝(Pegu)が建国されタイとラオスまで統治した。後に第2アバ朝(Ava)の建設がありその後のコンバング朝(Konbaung)は北部ミヤンマーに首都を置いた。


英国統治とビルマ独立
 コンバング王朝は、1824年、1852年と1885年の3度にわたる英国との戦争を戦い、1885年に滅びインド帝国に併合された。英国は首都を中央部から、南部のラングーンに移した。ヤンゴン川の流域に都市を建設し、イラワジ川デルタの灌漑に努め、交易と米の増産により、ミヤンマーは戦前と戦後直後は東南アジアで最大の経済力を誇った。しかし、人々は、英国からの独立を望んだ。
 1942年の日本軍のビルマ侵攻と英軍の追放はビルマの戦後の独立に大きく貢献する。
 ビルマ独立運動は1930年ごろから始まる。1942年にアウンサンはビルマ義勇軍を結成し、英軍を破った。敗色濃厚な日本軍に対し、45年3月アウンサンは反旗を翻し、反ファシスト人民自由連盟を結成し、日本軍と戦う。


アウンサン将軍と娘アウンサン・スーチー
 戦後、英国はビルマの独立を認めず、再び英国領となったが、英国の内閣がアトリーに代わり、1948年に英国から独立した。この間、アウンサンは政敵に暗殺された。その後不安定な政権が続き、1962年3月にネ・ウィン将軍が軍事クーデターをおこし、ミヤンマーは長い間暗黒の時代を迎える。これに立ち上がったのがアウンサン将軍の娘であるアウンサン・スーチーである。彼女はたまたま、ラングーンの病院に入院中の母を看病するために、英から一時帰国中であった。そこに民主化を求める学生たちの大規模なデモが起き、軍が鎮圧・発砲し、多数の死者がでた。その様子を目の当たりにした彼女に、学生たちや反政府の組織・民主化を求める代表が彼女に立ち上がること強く要請する。そして、彼女は決断する。1988年8月のことである。彼女は民主化を求める100万人の市民に訴える演説をビルマ人の心のふるさとシェダゴンパゴダ寺院の前で行う。そして、彼女は政府から、反政府分子、外国の傀儡としてにらまれ、その後約20年に亘って自宅に幽閉される。長い民主化の戦いの始まりである。


2013年5月 シェダゴンパゴダ寺院前
2013年5月 シェダゴンパゴダ寺院前の筆者(右)と友人中澤氏


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