1912年4月14日深夜、豪華客船タイタニックは氷山に接触して沈没、乗客乗員併せて1500名を超える犠牲者を出す大惨事となった。
このタイタニックの本物の「Placing slip」(保険ブローカーが発行する保険引受証書)をロイズから借りて表紙に使っている図書がある。今年2月、損害保険事業総合研究所(以下「損保総研」)が発行した「アンダーライティング」と称する2分冊の図書である。実によくできた図書であり、その全体像を俯瞰するために、目次のうち「章」の部分を以下に記してみよう。
「アンダーライティング I」
第1章 アンダーライティング概論
第2章 料率算出概論
第3章 保険数理概論
第4章 約款概論
第5章 リスクマネジメント概論
「アンダーライティング II」
第6章 財産リスクアンダーライティング
第7章 損害賠償責任アンダーライティング
第8章 物流リスク
第9章 再保険
第10章 ERM(統合的リスク管理)とアンダーライティング
本書は、企業物件に関するアンダーライティングの入門書でありながら、アンダーライターが専門家として保有すべき高度な保険知識を網羅的にカバーする素晴らしい内容になっている。これの発刊に2009年3月から3年間に亘って尽力された損保総研の前理事長 濱筆治氏は、保険毎日新聞2012年7月4日号掲載のインタビューで今回のテキスト発行の意義について次の5点を指摘している。
@「知の標準化」により、必須知識の特定と体系的な教育プログラムを作成でき、
業界がこぞって学習、修得することが可能になること。
A各社が企業に提供するサービスについて、業界ベースで「業務品質」を確保
しやすくなること。
B広範囲な知識を網羅したテキストの作成とメンテナンス、講座や資格制度の
運営は個社単独では難しいこと。
C将来的にはアメリカの高度な資格制度であるCPCUのように試験合格者に
資格を付与し、プロフェッショナルの育成が進むこと。
D教育は非競争領域にあたり、損保講座同様に業界全体での共同取り組みが
最も効果的であること。
濱前理事長の指摘の中で最も重要なキーワードは「知の標準化」である。業界としての共通化・標準化を推進するに当たり、教育は非常に重要な領域である。共通の教育を通じた「知の標準化」の実現は、業界全体に共通の規範、価値観、ノウハウを形成することにつながる。
1990年代半ばの保険自由化の前、保険商品の担当部門には、どこの会社にも通常の異動期間から大きく離れて長くその部門に居続ける「専門家」がいた。そこに新たに配属される者は、そうした専門家に畏敬の念を持って接し、徒弟制度のような形で少しずつ業務知識を身に付けたものだ。そして同時に、保険自由化によって全面的に廃止されたが、当時、損害保険協会に数多く設けられていた保険種目別の委員会も大きな学びの場となっており、そこに新人として出席すると、他の保険会社の先輩から様々なことを学ぶ機会が得られ、ここでも会社の枠を超えたある種の師弟関係が生み出されていた。
個別契約に関するアンダーライティングに関しては自社の先輩から学ぶ一方で、商品に関する料率算出や約款作成に関する実務の基本は、むしろ業界の委員会を通じて学ぶことが圧倒的に多かった。そしてそうした日々の業務を通じた学習とともに、背景となる理論を体系的に学ぶことができる図書が存在した。有斐閣の「損害保険実務講座」(著者は東京海上)、保険毎日新聞社が発行した保険種目別の「査定実務」シリーズ、海文堂が発行した同じく保険種目別の「理論と実務」シリーズはそうした図書の代表であり、業界としての知恵が結実した専門書であった。
会社の枠を超えた濃密な人間関係、そして、業界としての知恵の結実である数々の図書の存在、これらは、料率論や約款論という保険の基礎とともに、それの応用編であるアンダーライティングに関しても一定の論理と倫理を業界にもたらしていた。すなわち、保険に関する「知の標準化」を通じ、業界として各社の競争の前提となる「ゲームのルール」が生まれる構造になっていたのである。
もちろん、自由化が大きく進展した今の時代に、昔のような業界ベースの委員会が復活することはあり得ない。しかし、保険に関する「知の標準化」は、日本よりももっと早くに保険が自由化された欧米の保険業界において、実は日常的に見られる光景である。保険引受条件を決定するアンダーライターは、保険種類ごとの専門的職能として存在するが、有能な人は引き抜かれて次々と会社を変わっていく。そして有能なアンダーライターが会社を移動することによってノウハウもまた移動し、業界全体としての「知の標準化」が実現するのである。
わが国におけるかつての委員会を通じた日常的な議論、それから生まれた知恵の結実としての多くの図書、これらによる損保業界としての「知の標準化」、保険自由化によってこれが失われてから長い時を経ている。
このような中、損保業界が失った「知の標準化」という大切な価値を再構築するために、損保総研が発行した「アンダーライティングT、U」の2分冊は大きく貢献するだろう。この図書は、保険会社はもとより、保険代理店、ブローカーなど関係各方面の多くの方々からの注文を得ていると聞く。そして、損保総研では、本年10月以降、来年1月まで、3科目計7回にわたって、これをテキストとした「アンダーライティング講座」を開始し、これには148人が参加するようだ。まさに、今、新しい形の「知の標準化」が力強い歩みを始めたのである。
(文責個人)
日本損害保険協会 常務理事 栗山泰史
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