日本人とは何か
第9回 パプア・ニューギニアへの旅
上席研究員
小松正之
2016年5月12日
パプア・ニューギニアへ
自分の人生でまさかパプア・ニューギニアへ行くことになるとは思わなかった。私の唯一の思い出はラバウルで、パプア・ニューギニアの北に位置するニューブリテン島の北端にあることは今回初めて知った。父親が音楽が好きで大量のレコードを保管していて、その中に軍歌があり子供のころ勝手に「ラバウル小唄」を良く聞いた。「さらば、ラバウルよ。又来るまでは。しばし別れの涙がにじむ。・・椰子の木陰に十字星」と今でも諳んじられる。子供のころの記憶は島の国々の老人が日本語を忘れないのと同じである。
この国は文化人類学の研究には大変な宝庫である。原始時代の生活様式と社会をいまだに維持し現在と比較対照するのに、好適であること。そして、900部族があり、それぞれが違った言語を話し言語学の研究にも最適とのことである。人口は約700万人で、1975年に独立し独立後40周年を過ぎた。民族も多数に亘り統一言語が必要でそれがピジン英語であった。ポートモレスビー付近の南部は豪が、北部地方はドイツが占有したが第1次世界大戦後は豪が所有し、戦後この2地域が合併して独立した。西半分はインドネシアに所属した。
日本の海外進出の遅れ
ソロモン海に面する第一の工業都市ラエでフィリピン、マレーシア人と台湾人の投資の漁業・水産加工会社を見学した。日本人はこの地まで来ない。唯一太平洋セメントがある。戦前は、海軍と日本国民が競って南方に進出したが、今の日本の会社にはそのような意気込みは見られない。水産会社はどこも進出していない。これでは、カツオマグロ資源へのアクセスで、アジアの国々の後塵を拝する。更に中国と韓国の工場進出が既に決まった。日本企業の闘争と開拓の精神が失われたのであろうか。
パプア・ニューギニアは安全の問題があると出発前から聞かされており、私たちがラエ空港に着いた時から、水産総局が雇ったセキュリティ会社の警備員と自動車がついた。 私たちの滞在中には何も起こらなかった。
ラエ市の東、ワガン港波止場開発工事は内閣承認を得ているが、工事資金調達のめどが立っていない。ワガン部落に行き、首長と商工会議所会長と多くの人が出迎えてくれた。お土産を首長に出した親愛と敬意の表明だ。道案内は地元をよく知る役人がやってくれた。部族が異なると中に入っていけないようだ。
ビスマルク海のリゾート地マダング
マダンリゾート・ホテルに着き、夕食をパプア・ニューギニア政府の3人の役人とリゾート内のレストランで食べた。ウェーターに聞き「Giri Giri」というのがローカル食のココナッツカレーで 中にはエビ、ミドリ・ムール貝、固めのピンクから白身の魚などが入りとてもココナッツ味が特徴的で美味しいものだった。地元のフルーツが美味でスイカが特にみずみずしく大変に美味しかった。中がゼリー状で、粒粒が入る日本のアケビに似るスターフルーツと特に甘くて美味しいのがパパイヤだ。
親日国パプア・ニューギニア
2日目の晩は豪のオーナーが私たちに気を使い日本酒を無料で提供してくれ、お返しにマグロの振りかけを差し上げた。オーナーは日本贔屓でダイビングをしにくる日本人観光客も多い。パンフレットも日本語で書いてあり、テレビ画面には零戦の機体が写って紹介された。この国は大変に親日的だ。2年前に訪れたミクロネシア連邦も親日的だった。戦前の日本人が島嶼国の人たちに教育、農業と漁業指導で多くを与えたからであろう。戦争での迷惑は残ったであろうが。太平洋諸国は海軍の司令部が統治した。海軍は一般的に遠洋航海で訪れた外国を学ぶことが多く国際感覚と外地への理解が、多い特徴がある。
親日国、人と場所に出会うと、日本の先人の残した貢献や業績に心から感謝したくなる。今回の旅でも幾つかとてもいい体験をした。