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日本人とは何か

第16回 民衆から見た文化大革命と日本

公益財団法人東京財団
上席研究員
小松正之
2016年10月6日

衰退する中国農業

6月嘉興市の海寧市海塩県の丁橋鎮新倉村の再現した農村の住宅街と古農家を見に行った。その後、農村文化・産業の保存地区の観光の桃園・ナシ園を訪ねた。桃園の主人と話をする。食べる分にはただで、持ち帰りは1キロ8元(約120円)とのこと。そこの主人はナシ園の管理人であり、3人で土地を持ち寄って管理し収入が政府から月に3,000元(約45,000円)ある。自分の親は水田で稲作をしていたが、収入が少なく、その農家は継がなかった。工場に務め今は65才であるが、20年間桃園・ナシ園を経営している。娘は学校の数学教師をしている。子供は誰も農業は継がないが、休みの日には手伝いに来ている。自分より息子や娘が優秀であるが、彼らが努力したのである。娘の主人は医者をしていて孫もいる。箱入りの梨をお土産にいただいきお返しに新潟の煎餅を差し上げた。


民衆と文化大革命

集合の場所に戻る途中で、水田に水を引き、土を耕している69歳の男性と話をした。こちらから話しかけた。彼は突然、「文化大革命時代に中国政府が中国人には学問の必要がないと言う政策を取ったせいで、自分は学問をすることができなかった。若い時にもっと勉強したかった」と繰り返した。当時の中国政府の政策に対して相当の不満を持っている様子だ。「自分は本当にもっと勉強したかった。そうすれば農業をする必要がなく、科学を勉強したかった。あなたは、学問を積んだお顔をしている。本当にうらやましい。私はこんな人生ではなかった。」と語った。

しかし、「自分の娘はよく勉強して働いていて学校の先生をしている。桃園・ナシ園の先生と同じ学校の卒業生である。孫もよく勉強ができる。しかし、息子は自分と同じ農業をしているが、学問には熱心ではなく孫もあまり勉強はしない。自分の妻はあまり働かないので、働くように言っている。」と語る。「奥さんは好きか」と聞いたら、「照れて、嫌いだ」と言っていたが、中国人通訳によれば、どうも仲が良いらしい。中国人も日本人も年配者は、自分の妻には、照れて本当のことは言えないようだ。


中華人民共和国の成立と「文化大革命」

1949年10月1日に天安門広場で中国人民政府の毛沢東主席が中華人民共和国の成立を宣言した。共和制を目指した孫文らが主導した1911年の辛亥革命から38年が経過していた。その後農村社会の改善などを目指した、「大躍進」が失敗に終わった。それを劉少奇と鄧小平が非難した。毛沢東は、共産党内での自己の権力基盤の維持のために、自己の権力に挑戦する党幹部の追い落としをはかったのが「文化大革命」である。


文化大革命の勃発と終焉

1966年5月16日「文化大革命」が勃発した。若き女性教師聶元梓が北京大学の「陸平学長ら」を非難する壁新聞を張り出した。毛沢東はこの内容を早く全国放送するように指示した。「60年代におけるパリ・コミューンである。」と讃える内容であった。毛沢東は「文化大革命」を社会主義革命の新段階における「資本主義に道を歩む実権派の打倒」と位置付けた。その後、劉少奇、鄧小平と朱徳は名指しで非難された。

大学人が云われなく非難された。また、迫害や強制労働を強いられた。著名な教授らが自殺し殺害された。学生は農民、労働者や兵士に変わった。

「文化大革命」は毛沢東の死と1976年10月党中央委員会による江青ら4人組の逮捕で終焉する。


文化大革命と日中国交正常化

「文化大革命」の期間中、米中接近や日中国交回復が行われた。中国は、権力闘争に疲弊しソ連関係の緊張で、日本との和平を望んでいた。国交正常化と日中平和条約締結時に尖閣列島の領有権の棚上げは、周恩来と鄧小平から切りだされた。日本からの幅広い支援を得て中國の経済が発展した。誰が日本人でも中国人でもそのことを今覚えているのであろうか。



2016年6月中国海寧市海塩県丁橋鎮新倉村の農民(69才)とともに


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