日本人とは何か
第17回 太平洋とキリスト教
上席研究員
小松正之
2016年10月27日
太平洋から日本人を考える
今年は半年で7回も海外に出かけた。
ところで、これまでハワイと豪とニュージーランド以外未知の場所であった太平洋諸国を訪れる機会に恵まれた。4月にはパプアニューギニア(PNG)である。PNG政府におぜん立てしていただき、アレンジが行き届きとても快適な旅であった。10月のマーシャル諸島共和国である。この国のビキニ環礁は水爆実験で知っていたが、まさか其処まで行く機会に恵まれるとは、想像していなかった 親日国家で、海がきれいだった。
日本人を考える際に最もいい比較は外国人である。日本人に近い中国人、台湾、東南アジア人と遠い欧州人とアメリカ人をそれぞれ比較すると日本人とは何かを考える縁(よすが)になる。
マーシャル諸島、ハワイ、ミクロネシアとパプアニューギニアでも、現地人は、キリスト教に改宗している。新教とカソリックの双方である。キリスト教徒がやってきて改宗させたことになるが、土着の人々には、寄って立つ強い宗教がなかったことにもなる。
日本人と宗教
ところで、戦国時代末期には旧教国のスペインやポルトガルそしてオランダなどが、日本を訪れ、日本人をキリスト教に改宗させようとした。一部は成功したが、時の権力者の反対が強く、改宗者は少なかった。日本人のキリスト教徒は世界的見れば大変に少ない。
すなわち日本人は「キリスト教徒ではない。または、キリスト教徒ではない人口が大部分を占める。」と言えよう。
しからば「日本人とは何か」を考える際に、キリスト教徒とは何か、特に現代社会で、米国を中心に絶大な権力を発揮している新教徒とはいかなる人たちか。どのような歴史を持ち、過去に異民族に対しまたは、宗教観の違う人に対してどのような対応をしてきたのかを知ることが重要となる。そして日本人とは、新教徒ではない人たちとのアプローチができよう。
新世界で活躍し新国家建設に貢献することを使命とする新教徒の有為の人材を養成する目的で建学された米エール大学に私は学んだ。もともと、キリスト教、ギリシャ語やラテン語などを教えた。現在は、宗教を専門的に突き詰めて学究する神学大学院(Divinity School)がある。しかし、当時、私はキリスト教・新教を学ぶ心のゆとりも精神的かつ物理的な時間の余裕もなかった。その後20年以上をへて、書籍「エール大学の歴史」を読んだ。その中でエール大学で学んだ新教徒の役割と社会貢献と布教活動などにも興味を持った。
エルサレムの伝記から学ぶ
2013年8月にノルウェーを訪問した帰国の際にオスロ空港の書店で「Jerusalem A Biography」と言う700ページに亘る分厚い本を購入した。この書店は結構、世界の名著が並べてある。あまりの厚さと宗教と戦争史の極めて、特殊で専門的な内容に、おじけづく。しばらくほっておいた。私の部屋は世界各国で購入した書籍がうずたかく積み上げられている。其れでも、また買い込んでくる性癖を修正することができない。
読み出したら、止まらなかった。仏教以外の世界の偉大な宗教の首都「エルサレム」を取り巻く宗教と戦争と都市建設と破壊を描いていた。ユダヤ教から始まり、その経典の特質に入り、そしてユダヤ教の改革者のイエス・キリストに話が及び、12使徒やその布教の困難と迫害の様子が描かれる。イスラム教も原点はユダヤ教キリスト教と同根である。宗教とは、対立の源であり戦争の原因であることが明確に描写される。ローマでペテロやパウロが迫害され死すが、しぶとく布教が続けられる。これ等が無視できない勢力を有するとコンスタンチヌス帝はキリスト教をローマ帝国の国教とした。権力者の国家統治のご都合主義がキリスト今日の世界宗教としての確立には大きな役割を果たした。(続く)