日本人とは何か
第29回 明治維新は正しかったか(その2)
上席研究員
小松正之
2017年8月17日
明治維新は何から始まったのか
明治維新から始まる明治国家は徳川の鎖国と国内向きの志向とは全く異なった、台湾、朝鮮半島、中国と東南アジアなどから見れば侵略国家であった。これら要因は何だったのであろうか。
徳川に対する恨み辛みを各藩の下級武士たちが、支配階層への不満を討幕という形で表現したのであろか。「尊王攘夷」のスローガンも今の政治と何か重なるものがある。日本の将来像への中身があるように見えない。その場しのぎと惰性で、一度動くと悪くてもそれを修正し改革することが出来ない。刹那主義で、将来に大きなつけと禍根を残す。
徳川幕府役人を登用
薩摩と長州の下級武士たちは、徳川の政権を倒し、権力を手中にし、政権の運営力が必要であった。しかし、有能な能吏は徳川の役人と、財政と経済運営にたけた三井、三菱、住友などの財閥を形成する商人であった。
地租改正、郵便事業の振興などはすべて旧徳川の幕臣を登用して、知恵を出させそれを明治新政府の役人が自らのアイデアのごとくふるまった。
好戦国家の源は明治維新
吉田松陰は「朝鮮、中国やアジア諸国は侵略すべきもの」と主張した。彼が1854年に書いた幽囚録には琉球、朝鮮、満州、台湾などを奪えとした。
福沢諭吉も「西洋事情」などを執筆し、日本の民主化を唱える一方で、日清戦争には「これは文明と野蛮の戦いである」としている。彼は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と言った。皮肉である。
日本の近代化は西洋諸国の侵略から日本を守る自衛のための軍備増強と殖産興業であった。しかし、近代日本が辿った道は近隣諸国から見れば侵出・侵略であった。まず琉球を沖縄県として我が国に組み入れた。琉球王国は日本と清国の双方に朝貢し、その帰属を明確にしない独立国家であった。それを足掛かりに日本は台湾に派兵し占拠した。
吉田松陰らに影響されたのが征韓論である。 明治の新政府は、李氏朝鮮から開国の使者が断られると、武力をもって開国させ、日本の都合に合わせた統治をした。日清戦争も日本が朝鮮に出かけた戦争であった。その後日露戦争、韓国併合、義和団の乱、第一次世界大戦と満州事変、支那事変、首都南京攻略、重慶爆撃、そして米が欧州戦線にも参戦する真珠湾攻撃へとつながるのである。
米アジア太平洋進出と対立
本土領地をメキシコとの戦争で拡大した米国は次いでハワイ、フィリピンとその勢力を拡大し、一方日本は第一次世界大戦後カロリン諸島やグアム島や北マリアナ諸島を手中に収め、米国と対立を始めた。双方が軍事力を背景にした資源の獲得とマーケットの確保が目的であった。義和団の乱以降日本は中国への進出を強め、中国市場に関心が深い米国は中国の門戸開放を宣言した。
日米とも資源とマーケットの獲得に動く財閥・閨閥が戦争を指導し、それに動員され、巻き込まれるのは一般市民である。
本当の日本の歴史を学べ
両国の違いは、日本は天皇を主権者とする、国民の意思が反映されない国家であり、国家総動員法が明治憲法の上を行き、大政翼賛会と大日本産業報国会の名のもとに国民がすべての自由を奪われ、国家に尽くすことを強いられ、一方で米国は男子普通選挙(黒人を除く)が実施され米国大統領を国民が選ぶことが出来た。これがファシズム(全体主義)とデモクラシー(民主主義)の差であるが、問題の本質は似たようなものか。
江戸時代までの平和国家日本が明治維新を契機として、その後急速に軍事国家として、自衛を目的としつつ、結果的に近隣諸国から批判される侵略戦争を始めた。若し明治維新がなければ、その後の幾多の戦争がなかったろう。230万人から300万人の日本人がなくなった第二次世界大戦も経験しなかったろう。明治維新のどこに病根があったのか。これらの数々戦争の歴史は、一部の政府上層部、軍部上層部と旧財閥が主体的に起こしたものとは言え、これは私たちの歴史である、本当の日本の歴史を学ぶ必要がある。