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日本人とは何か

第32回 全日空(ANA)でのいい話

公益財団法人東京財団
上席研究員
小松正之
2017年10月19日

最初の国際線はニューヨーク行き

1982年7月1日に私は始めて国際線に搭乗した。ニューヨークのケネディ―空港に向かった。今は無いパンナム航空800便であった。20万円以上払ってエコノミーに乗り、台湾人乗客の間の真ん中の席に座らせられた。人事院に出入りする旅行代理店だったが、誠意がない対応だった。

飛行機の内部は狭く、飲み物を注文するのも難儀であった。寒いのでスチュワーデスに毛布を注文したらミルクを持ってきた。日本貿易振興会(JETRO)に農林水産省から出向中の平田寿夫さんが空港まで出迎え、マンハッタンのカルカッタホテルまで連れて行っていただいた。道には汚水があふれ、喧嘩があり2年間どう過ごそうかと愕然とした。

1988年7月に在イタリア大使館に赴任した。アンカレッジとコペンハーゲンを経由して、ローマまで22時間の飛行であった。日本航空(JAL)ローマ便は夜9時頃の出発で、早朝にアンカレッジについた。長女が熱を出しアンカレッジで飛行機を降りて三日滞在した。


国際線機内は至福の時空間

国際交渉の当事者の時代には行きは会議用の書類を読み、6〜8時間を要した。隣に座っていたパントマイムの世界的演者マルセル・マルローが、「あなたはどうして熱心に仕事をするのか」と話しかけてきたことがある。必要に迫られただけだ。帰りは、国際交渉や米国政府との交渉記録を整理し、同様の時間を過ごした。忙しい。今も外国での調査や政府との話し合いに出かける。昨年は7回、今年は4回である。私には、飛行機内は誰にも邪魔をされない至福の時空間である。現在も依然として、会議や視察の準備で忙しい。

映画やオーディオのプログラムは1960年代から1980年代のものを聞いた。頭が休まった。シンガポールやマレーシアへ行った折には、谷村新司の「昴」を聞いた。

英語のヒアリングの向上に努めが、効果があったかは疑わしい。ジェット騒音で英語の聞き取りが難儀だ。名優モーガン・フリーマンや個性豊かなロジャー・ウイリアムズは聞きやすい。トムクルーズの「ミッション・インポッシブル」は大好きだが発音は聞きにくい。

JALのローマへの直行便があったときに、キャビンアテンダントの女性陣からローマ市内のお勧めのレストランを聞かれ、キノコ料理(イタリア語では「フンギ」)の専門店「ランパーダ」を紹介した。私が夕食と取ろうとそこに行くと機内で会話した4人のキャビンアテンダント女性陣が食事を楽しんでいた。


ANA(NH2便)でのいい話

7月1日、ANA(NH2便)でワシントンDCのダレス空港に向かう時のこと。パスポートを新しくしたのに米入国に必要な「米国渡航認証システム」(ESTA)が古いパスポートについたままで、空港ANAカウンターで指摘され、ANA地上係員の若い女性が新パスポートへのESTA取得を手伝ってくれた。その手続きに40分を要し搭乗口まで、男性職員の案内で急いだ。次女から化粧品の購入を頼まれていたのでDior(デイオール)に立寄った。クレジット・カードを仕舞い忘れた。機内でJALカードがないことに気づいた。

キャビンアテンダントの女性に、案内してくれた成田空港の男性地上職員と連絡と取ってDiorにカードがあるかを確かめてほしいとお願いした。それをやってくれて、カードが無事見つかり、帰国後8日に成田税関で受け取った。税関も親切だった。ANAの上層部に御礼と機内で申し上げたら、「当たり前のことをしただけですから」との返事であった。最近は「当たり前が当たり前にできない人や会社」が多い。

だからこそ「この当たり前の会社」を紹介したい。私は1986年7月、ANAはじめての国際線がワシントンDCに飛んだNH2便の1号機(または2号機)の乗客であった。慣れないスチュワーデスに米国入国の手続きも教えた。ほのぼのとした思い出である。日本からNH2便と帰りのNH1便 は数えきれないほど搭乗した。今回の旅で基本を大切にする日本人と日本企業に接して気持ちが弾んだ。



米ワシントンDC郊外チェサピーク湾岸、1〜3億円の高級住宅。2017年7月6日 著者撮影


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