日本人とは何か
第37回 慈覚大師とライシャワー博士
上席研究員
小松正之
2017年12月28日
慈覚大師とライシャワー博士とは
約20年ぶりの引っ越しでエドウィン・ライシャワー氏の著作を2つ捨てかねた。ライシャワー博士はジョン・F・ケネディー大統領が駐日大使に任命し1961年から66年まで務めた。沖縄の返還にも努力し、日韓基本条約の締結の陰の功労者である。父親は桜美林大学で教鞭をとり、東京女子大学の創設の立役者の一人である。私は2016年4月ケネディ大統領のご長女キャロライン・ケネディー前駐日大使から朝食会にご招待されお話しする機会に恵まれた(写真)。
エドウィン・ライシャワー著『唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記の研究』に円仁(えんにん;没後の尊称「慈覚大師」)が私の目の前に登場し、読みだしたら止まらなかった。本と人との出会いは時宜がある。
慈覚大師は最澄が開設した天台宗の第3代目の座主となった。そして最澄に「伝教大師」の称号を与える働きかけの最大の功労者である。
私が慈覚大師の名を初めて承知したのは、53年前の小学校の修学旅行で宮城県松島町を訪れ、伊達政宗が戦国時代に衰退した延福寺(現在の瑞巌寺)を再建したと伝えられる開創者としてのその名を見た時からであった。
円仁は836年の2度の渡海の失敗後838年に遣唐使として上海付近に上陸し、本使節とは離れ本人は部下の僧侶2名と下僕1名の4名で847年まで天台宗の本山である五代山、揚州と首都の長安に滞在した。仏教を求めるとともに、中国の政治、経済と社会並びに皇帝や各地に設置された節度使、滞在中の世話を見た朝鮮人社会などの観察と見聞を多方面に記録した。ライシャワー博士によると円仁の記録は13世紀に元王朝に渡り、そこでの記録を牢獄で他人の口述で表し、観察眼も低かったマルコポーロの「東方見聞録」とは雲泥の差であるという。
ところで、遣隋使として有名であったのは小野妹子であった。しかし、隋の煬帝が、日本の書簡が隋と対等の書きぶりだと怒ったと言われる。遣唐使の始まりは630年の犬上御田鍬の派遣である。その後200回に及ぶ遣唐使が派遣され、行政官、技術者や僧侶が派遣されて、唐の政治、文化と経済と仏教を学んだ。最後の遣唐使は円仁の強い要望で派遣された。しかし円仁の頃、唐の武宗は仏教を禁じ、道教を信仰した。仏教は異民族が始めた邪教であり、華人の創設した道教の台頭と科挙制度に基づく儒教の重視である。武帝は仏教徒を還俗させた。仏門に入る成年男子が仕事もせずに税金も納めない状況が唐帝国の財政と経済を弱めるとの考えからであったが、武帝は、多くの従わない僧侶や一般民衆と部下の将軍までも殺した。このような政治、経済や庶民の動向が「入唐求法巡礼行記」に示されている。
ライシャワー博士の見た日本人とは
同様に天台密教を求めて唐にわたった最澄は滞在が8か月と短期間であって、中国語も理解できないと言われた。一方で円仁は、9年に及ぶ唐の滞在期間に、中国語も習得し、中国人でも残すことができなかった詳細の記録を残した。これは円仁の業績であるが、現在の日本人に理解できるように提供したのは、ライシャワー博士である。彼は、日本を日本史の単独でなく、中国史と東アジア史並びに欧州史をも含め多角的に大局的に分析し解説した。ともすれば、一つの現象をそれ単独で評価し、大局的なものの見方が弱い日本人は狭い観点から歴史の一事象を見てしまう。そして日本の将来像について明確な発言をしないのが日本人の特徴であると叱咤激励している。今後は日本人が世界に向かってはっきり発言するべきであり、ライシャワー博士はそのためには、日本史を大局的に、なぜそうであったのか理由や背景を総合的、大局的に捉える必要があると述べる。今の日本人にも過去の日本人にも欠けていたのがまさしくこと点であると考える。