日本人とは何か
第58回 桜と新宿御苑(その1)
上席研究員
小松正之
2019年4月4日
桜と日本人の心
桜は「世の中にたえて桜の無かりせば春の心はのどけからまし」(在原業平;貞観17年(875年))と歌われた。
「散る桜残る桜も散る桜」(良寛和尚;1758年〜1831年)は戦後の名優の鶴田浩二の歌で心に残る。戦争の悲惨と悲哀を訴えた。人間一生懸命に生きても、惰性で生きても、いずれは死を迎える。生き残っても、今死んでいく人と同様いずれ死ぬ。
最近の日本人にもっともなじみの深い桜の染井吉野は江戸末期から明治初年頃にかけて、染井の植木職人によってエドヒガンと大島桜の交配によって生みされた。染井吉野はその淡い色と短い開花期間が、日本人の心の中でそれぞれの人生と重なり合うのであろうか。
桜といえば西行法師である。吉野山に咲く山桜を見て歌った。「願わくば花の下にて春死なむ如月の望月の頃」。桜は吉野の山桜である。山桜はまっすぐに伸びて、葉が芽吹くのが先で、木の上部の枝に桜花を咲かせる。花を咲かせる大木になるのに長い年月を要する。
種類が豊富新宿御苑の桜
桜の季節には長蛇の列ができるのが新宿御苑である。とても人気で最近では外国人観光客の入園者も多い。
昨年までは200円であった入園料が2019年3月から500円に値上がりした。年間パスポートは2000円のままに据え置きである。
新宿御苑には75品種と1500本の桜が現存する(平成16〜17年の桜樹の本数と品種調査)。だからいつ行っても何かの桜が冬でも咲いている。今は桜の盛期である。染井吉野や大島桜やエドヒガンが満開である。新宿御苑を代表する桜は日本原産の八重桜で白と桃色の混ざった一葉(イチヨウ)だそうだ。新宿御苑の中では中間の三角花壇の付近にある。千駄木口を入り左手に曲がれば山桜の一群に会うことができる。今が花盛りである。
新宿御苑は内藤氏の下屋敷
新宿御苑は長野県の高遠町を領地とした徳川家康の家臣高遠内藤氏の下屋敷の四谷屋敷がもとの土地である。高遠内藤氏から廃藩置県の際、明治政府に提供されたものである。
日本は、明治政府の成立後その財政は火の車であった。殖産興業で、国家財政を豊かにし、富国強兵を果たさなければならなかった。その第一の産業は農業であった。岩倉具視とともに西洋諸国で農業事情も視察した大久保利通が推進した。
新宿御苑の始まりは内藤新宿試験場
明治政府が明治6年(1873年)にこの四谷屋敷の57万7275平方メートルを買い取った。国内の米穀や薬草の他外国の種類の栽培に力を入れ、リンゴやブドウの7500株と3000株が栽培された。レモン、イチゴ、サクランボとオリーブの栽培を手掛けた。これを「内藤新宿試験場」という。しかし、更なる農業振興のために、農業振興の機能は三田の育種場と駒場の農学校にその機能を移し、内藤新宿試験場は宮内省の所管の「新宿植物御苑」(明治12年(1879年))になった。これによってこの場所は天皇・皇后両陛下をはじめ皇室の園芸、養蚕と農業に親しむ場所となった。明治13年には明治天皇が行啓され愛馬に乗って苑内を一周されたと伝えられる。明治天皇は新宿植物御苑(御料地)において狩猟を楽しまれた。
西洋式の苑園へ
ところで新宿御苑が西洋式の庭園・造園を内包するにあたっては、フランスなどに留学して西洋流の造園学を学んだ福羽逸人の貢献が大である。彼は明治19年から21年にかけてフランス・ベルサイユ宮殿の造園学を学び、また、イタリアやシャンパーニュ地方でワインの作り方も習った。しかし帰国後農商務省では、政府の緊縮財政の影響で、農業を柱とした殖産興業がとん挫していた。代わりに福羽は荒廃した茶園、桑園と水田の植物御苑をメロン、イチゴ、トマト、アスパラガス、ブドウやネクタリンなどの栽培を手掛けて成功に導いた。福羽は西洋式の苑園に改造する決意を固めたといわれる。そのために苑内に存在する温室と植物御苑の復興に努めて成果を上げた。これが現在の国民公園としての新宿御苑のもととなる。(続く)
桜の花が満開の新宿御苑と建設中の国立競技場 4月1日