日本人とは何か
第59回 桜と新宿御苑(その2)
上席研究員
小松正之
2019年4月25日
北上山地のすがすがしい桜花
4月2日東京三田の旧蜂須賀邸跡地に建てられた在日豪州大使館のオーストラリアの春の桜を見る毎年恒例のパーテイィーがあった。コート駐日大使は西豪州政府の首相を務められ、昨年に赴任されたが、奥様が親日家で美しい模様と色彩の和服姿で登場された。大使ご夫妻が両端に真ん中に私が入り記念写真となった。
9日、羽田空港に向かう品川大井ふ頭沿線に咲く桜が満開であった。都心より約一週間も遅い。桜樹種を見てはいないが色調から染井吉野か。とすれば、東京湾からの海風が吹き抜ける場所はビルが乱立する都内に比べて桜の開花が10日間も遅い。ビル群が地球温暖化の効果を大きくしているのでは。
18日は一関から陸前高田市に入った。沿道と小高い丘と森に咲く桜のきれいでみずみずしいことか。桜の樹齢は明らかに若い。ほかに東京の桜とかくもどこが違うのかと思う。
20日に新宿御苑を訪れた。染井吉野の開花は終わり葉桜になった。代わって、大木戸門から丸花壇にたどり着くまでの小道に里ざくらの関山が桃色の鮮やかな八重の花びらを満開に咲かせる。また、明治天皇や昭和天皇がご訪問の際の旧御休憩所の正面右側の関山もまた花びらをたっぷり開き満開であった、新宿御苑の代表の桜「一葉」は、三角花壇付近が素晴らしい大木である。白色が関山より強いが、開花のピークは過ぎ葉と花びらが入り混じり緑白のコントラストがとてもきれいであった。桃と白がきれいな八重桜の「普賢象」も満開で素晴らしかった。
新宿御苑の誕生
新宿御苑の生みの親である福羽逸人(ふくばはやと)は1856年島根県津和野に生まれ、1878年(明治11年)に内務省勧農局試験場に入りその後農業園芸関係の職に就く。1900年にパリの万国博覧会に出席のためにパリに出張し、そこでベルサイユ園芸学校教授のアンリ・マルチネに新宿御苑を西洋式の庭園にするよう築造設計を依頼した。マルチネは同校を首席で卒業し、フランスを代表する庭園雑誌「ル・ジャルダン(庭)」の編集長を30年間務めた。1901年(明治34年)にはその設計図を、福羽は持参したと思われる。
翌年1902年(明治35年)から1906年(明治39年)までの5年間をかけて、植物御苑の大改造が行われた。面積が御苑の3分の一しかない日比谷公園が25万円であるが、御苑は2万9千円で完成している。日露戦争(1904~5年)下での明治天皇の質素倹約を反映したとも考えられる。
御苑で日露戦争の凱旋将軍歓迎会が行われ、1906年5月31日に明治天皇が「自今、新宿御料地一円を新宿御苑と称すべき旨を令す」とされ、「新宿御苑」が誕生した。
国民に開放された新宿御苑
終戦後は一時東京都農務課が宮内庁から許可を得て「農業科学講習所」とする予定であったが、皇室財産に課税されることとなり、新宿御苑が物納の形で宮内庁から大蔵省へ所管替えされた。さらにGHQと新憲法の主権在民と民主主義の影響で、旧皇室苑地の国民への開放の方針が定まった。
国民公園70周年
1949年(昭和24年)5月21日に厚生省の所管となり、国民公園として「新宿御苑」が再出発した。貴重な歴史的、文化的かつ自然環境を尊重する公園としての機能と役割を保持した。新宿御苑は1971年(昭和46年)からは厚生省に代わって環境庁(その後環境省)が管理運営を委ねられた。そこで自然を大切にする環境教育や「母と子の森」などが設置され、母と子の自然への触れ合いを通しての教育が行われている。大人にとっても数少ない野草や野花を観察し触れ合える貴重な場所でもある。
今年の5月21日は新宿御苑が国民公園となってから70周年を迎える。外国人の入園者もとても多くなってきた。観光客だけでなく多くの小さな子供を伴った家族連れの外国人のグループが桜花の関山のもとで、のどかなひと時を楽しんでいた。国民公園が国際的な公園にすでになっている。
(参考文献)
環境省「新宿御苑の見どころ 春」
上野攻著「新宿御苑」(文芸社)2019年3月
(公財)新宿未来創造財団新宿歴史博物館「新宿御苑 皇室庭園の時代」2018年10月
旧御休憩所脇の「関山」4月20日
新宿御苑を代表する桜「一葉」4月20日