日本人とは何か
第62回 小倉の松本清張記念館と岡山の後楽園
上席研究員
小松正之
2019年6月27日
小倉の落ち込み
久しぶりに小倉に行った。夕方、博多薬院の寿司屋に行った。
博多の元気さが一際目立ち、小倉の寂しさが際立った。新幹線では博多から小倉に来る人は少なく、小倉から博多に行く人で混むのだという。私が乗ったタクシーの4人の運転手も自嘲気味に答える。小倉は箱モノだけ作って、産業振興と雇用の創設はしなかった。新日本製鉄(旧八幡製鉄)も事実上なくなった。小倉城の天守閣から紫川の下流に目をやると、埋め立て地が広がる。人造的な4角形の土地で自然を感じない。
松本清張記念館
小倉城内には旧陸軍第12師団司令部の跡地があった。森鴎外も軍医部長を明治32(1897)年から3か年間務めた。そこで「小倉日記」を書き残したが、一時行方不明になり40年後に身体に障害を持った若者の田上耕作が、母親の支援を得て、森鴎外の小倉での足跡をたどる。それの事績を書いたのが「或る「小倉日記」伝」である。清張はこれで芥川賞を受賞した。小倉は第2次世界大戦前朝鮮半島への軍隊の前線基地であった。清張も召集され釜山郊外で数年間を過ごし、復員後に小倉に住んだ。
小倉城の一角に平成10年(1998)年に松本清張記念館が建つ。私は午前10時に入館したが、他には訪問者はいなかった。松本清張の全作品の表紙の写真が圧倒するように壁に展示されていた。どこの博物館や記念館も、娯楽センターやテーマパークほどの訪問者がいたためしがない。
松本清張記念館 著作のカバー写真 2019年6月
5〜6年前に米カリフォルニア州サリナス市(モントレー市から内陸に20キロに)に行った。ノーベル賞を受賞した「エデンの東」や「怒りの葡萄」の小説家のジョン・スタインベックの故郷で、スタインベック博物館があった。入館者はあまりなく私に説明してくれた老女はボランティアで、話が簡潔で分かりやすかった。別れ際に、「私の話は役に立ちましたか」と問われ、「大変に役に立ちました」と答えたら、ほほ笑んだ。
松本清張記念館には説明者が誰もいなかった。地下の売店で、売り子の女性は、著書の選択について親切で、一人の老人もわきから口をはさんだが、説明をしてくれるわけでもない。
芥川賞受賞作「或る「小倉日記」伝」、最初の小説「西郷札」、「父系の指」、「菊枕」と松本清張の半生を彼自身が出版社の要請で書き上げた「半生の記」を購入した。父の故郷から始まり、自らの貧困と人間関係に嫌気がさしてもそれを克服しながら力強く生きる人生が、克明に描かれる。清張の文章力、膨大な教養と知的でたぐいまれな好奇心と疑問を持つ心は父親の影響か。よくぞここまで自分と両親を書いたものである。清張の文章は本当に読みやすい。修辞がなく、事実と自分の考えが主体で、率直な表現である。
後楽園
後楽園を訪れた。理由はいたって簡単である。金沢の兼六園は20代のころから2回、水戸偕楽園は福島県矢祭村からの帰りに時間があったので観光した。これで日本の三大名庭園をすべて訪問した。岡山駅から1キロ余りであり、駅から「桃太郎通り」を まっすぐ東に歩き岡山城の向かいで旭川の対岸にある後楽園に向かった。後楽園には南門から入る。旭川沿いに目をやると河川縁は、石が積まれ、固められ遊歩道になっている。これをリップラップ(Rip Rap)というが、環境破壊である。川の動植物の種類とバイオマスが減少する。今は欧州でも、米国でも、自然を活用した工法で、防災と生態系の回復・維持に努める。
後楽園は、手入れが行き届き、大変にきれいで、花菖蒲が見事に咲き乱れる。日本池や藩主池田公が滞在された延養亭から庭園全体が眺められる。障子、軒先と茅葺の屋根の調和が見事である。手入れが大変である。後楽園は純粋な日本庭園で、地形と樹木と川との調和を図っている。残念なのは、説明者が誰もいないことである。ここが西洋とは異なる。自分の良さを宣伝し、説明することが大切と思う。そのことが訪れる人、地元にも、ボランティアにとっても良い。日本人もちょっとしたことで変化を起こすことができるのではないか。
後楽園から岡山城を望む 2019年6月撮影