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日本人とは何か

第84回 司馬遼太郎に学ぶ日本人像{石巻編}

一般社団法人生態系総合研究所
代表理事 小松正之
2020年12月9日

日本中を旅する司馬遼太郎

司馬遼太郎は若い時からあこがれた。「日本人とは何か」を考える際、私の脳裏に浮かんだのが司馬遼太郎であった。「街道をゆく」はすべてを読んだ。「台湾紀行」、「韓のくに紀行」と「ニューヨーク散歩」がこの中に入る。彼は、ある場所の記述から始め関連する場所、人と文化に飛んだ。一つの場所にとどまらない。歴史、文化も土地風土のすべてが連続だからである。

司馬遼太郎はよく日本各地を旅行したが私も日本と世界も数多く訪問した。諸外国との比較と科学的な客観的なデータに基づいた視点がいる。



万石浦で万石橋の下で海洋調査中の著者 2020年12月4日


「街道をゆく」は地理・地誌史でもあるが、人物観と何がその土地の人間・土着民を生み、故郷を形づくり、日本を形成したのかを問うたのではないか。


街道をゆく第26巻 石巻での科学調査

「街道をゆく26嵯峨散歩、仙台・石巻」に登場する石巻に12月4~5日と出かけた。



万石浦 ホタテ貝殻にカキ稚貝をつけて干出させる 12月5日


万石浦、石巻湾と北上川の海洋・河川の環境科学調査のためである。海水流入路が狭く、中が膨れる万石浦の海流のメカニズムを調査し、陸前高田の広田湾と巨大堤防で閉鎖された古川沼を水路トンネルで繋げたらどうなるかを知る目的である。万石浦は石巻市と女川町にまたがる。渡波地区を当初は塩田として干拓し、その後埋め立てできた。第2代藩主伊達忠宗は「ここを干拓すれば一万石の米が穫れる」と言ったことに万石浦は由来する。

江戸時代は風雨、波浪そして海流が厳しく、太平洋沿岸は海路として発達が遅れた。それでもコメなどを運搬する航路が設けられた。石巻には松尾芭蕉も訪れた。伊達政宗に滅ぼされた葛西氏の居城跡がある日和山が存在する。当時の運搬廻船は風を待ち海路の日和を待って出航した。

北上川は全長249キロで水源は岩手県岩手郡御堂である。その治水と利水も伊達藩の大事業であった。伊達政宗は関ヶ原の戦いで敗れ、中国8州から防長2州に減封され、失業した毛利藩の家臣川村孫兵衛を雇い入れた。彼に迫川と江合川などの北上川の支流の付け替えを任せ、仙台平野を大穀倉地帯に変革する。明治から昭和9年まで追波川を拡張し本北上川を造り、追波湾に流した。石巻が氾濫から解放された。利根川と隅田川・旧中川の関係と信濃川関屋分水路や広島湾の旧太田川本流と太田川放水路との関係に似る。


陸上からの原因と海洋の悪化

河川の付け替えで洪水は防げたが、自然に逆らった。基本的に多量の水をいち早く海に流し込む。海への栄養提供から見るとマイナスである。現在では、北上川の河口は捨て石で河岸斜面を形成し海には栄養がもたらされない。石巻湾と万石浦の栄養が減った。自然生産サイクルの循環が弱くなった。海苔の網からの遊離(養殖業者は「バリカン」と呼ぶ)が多く、収量が減る。

石巻市南光町に立地する株式会社日本製紙石巻工場(1938年に東北振興パルプ株式会社設立1940年12月操業)は北上川の豊富な水を活用するが、排水口から湯気の立つ排水が毒々しい流れを放つ。付近の海水温が13℃であったが100メートルほど離れた私の計測器では16℃台まで上昇した。排水の濁度も高い。海は掃きだめか?



日本製紙石巻工場の湯気の立つ白濁排水 2020年12月5日午前 著者撮影


1958年の江戸川の本州製紙工場の汚染水流出も東京湾の漁業に影響を与え、駿河湾へ流れる1970年代の田子の浦のヘドロ騒動も漁業に悪影響を与えた。

河川は水量、栄養と土砂をもたらし、水と土砂は湿地帯と干潟を形成し、沿岸と陸との間の栄養・汚染物質と水循環を促進する。その湿地帯と干潟を日本人は干拓し埋め立てた。海の栄養と健康が保たれない。

万石浦の水路も水がよどみ、かつての万石浦を知る人は汚くなったと語る。司馬遼太郎も宮本常一も高度経済成長期の盛期を迎えた作家である。彼らにより、日本の企業や公共事業・土木工事による膨大な環境破壊を指摘した形跡は乏しい。企業の行動をただすには独自の科学情報の入手が重要である。(了)


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