火災保険 自動車保険 傷害保険 農林水産省の皆様へ 茨城県庁の皆様へ 法人のお客様 お問い合わせ

日本人とは何か

第117回 信濃川の大河津分水路

一般社団法人生態系総合研究所
代表理事 小松正之
2023年10月27日

信濃川と大河津分水路

分水路で有名なのは、利根川と隅田川・旧中川と北上川と追波川であるが、人口密集地から河川を迂回させる広島市太田川放水路と太田川支流もこの範疇に入ると考えられる。

信濃川は、甲武信ヶ岳に源流を発する長野県内を流れる千曲川214キロメートルと新潟県内に入る信濃川153キロメートルの合計367キロメートルの日本最長の河川である。

大河津分水路は、燕市の大河津から長岡市の寺泊海岸までの全長約10キロをつないだ人工の大水路である。

これによって新潟平野は大穀倉地帯となり交通網が発達し土地利用にも変化が生じた。信濃川の下流域の治水は各段に向上した。川の中であった土地は農地や宅地として利用できた。


大河津分水路の歴史

1)江戸時代から明治
大河津分水路の掘削の要望は享保の年間(1716~1735年)の寺泊の本屋敷數右衛門が幕府に最初に嘆願したのが始まりである。その後、子の數右衛門が寛政元年に信濃川の悪水を抜くため新川(分水路)の造成を願いあげている。

小泉蒼軒(1797年生まれ明治6年77歳で死亡)は新発田藩士で越後と佐渡をくまなく歩き、父の越佐地図の完成を助けた。彼は「蒲原郡水害の記」を残している。


2)明治元年(1868年)の大洪水と横田切れ
大洪水を契機に明治政府は分水路の工事に着工したが、折からの難工事、財政難で、かつ英国人灯台専門技師ヘンリー・ブライトンが1872年(明治5年)3月工部省に対して信濃川河口の水深に有害なる故中止すべしとしたが取り入れられなかった。しかし、オランダ人技師のリンドウは明治5年に来日し、明治6年10月に「信濃川河口の水深に有害なり」との報告書を出し、明治3年から開始された本工事が中止となった。

1896(明治29)年7月21日の大洪水、22日に各所で破堤が起こりその最大のものが横田切れで下流の新潟市にまで大災害・大被害を発生させたことから、工事が再開し大正11年(1922年)に分水路に水が通った。

1931年に信濃川の本流を閉鎖して、大河津分水路に水流を流す機能を有する自在堰が決壊した。これは土木工学の技術者にとっては、自らの自信を傷つける一大事故であった。その後、その堰の補強工事がなされた。川幅が分岐路の付近で720メートルで河口では180メートルと極めていびつな形状となっているので、これが氾濫と洪水対策への根本的な弱点でもある。現在でも河口付近2キロが山地となっている。現在進行中の平成の改良工事で河口付近の山を約100メートル掘削し拡張工事を行っている。

河川は蛇行する。また、下流では川幅が広く、川底が浅くなり流速が減退する。しかし、大河津分水路は全流路が直線で川幅が河口域で狭く川底が深いという根本的な問題は解決されない。このことは自然の摂理に合致していないことを物語るので、防災上の問題点は今後共生じる可能性がある。


河口域の川幅の拡張工事

現在大河津分水路は ①下流域の洪水処理能力の低下による拡張工事と ②老朽化した第2床固の補強工事が実施されている。➂河床の低下による構造物の安定性の低下と右岸部地滑りの危険性への対応工事が行われている。

大河津分水路は、その建設された場所の地形と地質的な面で制約を持っている。通常は、河川は下流に行けば行くほど川幅が広くなり、川の勾配が平たんになって、河口域は多くの水量を貯えることが可能であるが、大河津分水路は、むしろ分水路の開始の地点で川幅が広くかつ、流れが緩やかである。信濃川はこのような性格・特質を持った流域の地点がいくつかあり、これが信濃川の水流を停滞させる原因であり、また、信濃川が豊穣の恵みを蒲原平野(新潟平野)にもたらした理由でもあると考える。



大河津分水路下流域拡張工事を左岸山腹掘削工事現場から視察 2023年9月4日


分水路の開始部分では川幅が約720メートルあるが、下流部(7.8K)の第2床固では僅か180メートルである。またこの第2床固の右岸には、地滑りが起きた山腹があり、それが、第2床固の崩壊を招く可能性がある。



拡張工事 国土交通省北陸地方整備局信濃川河川管理事務所提供


カワシマのホームページへ戻る