日米関係160年は捕鯨から始まる
本年4月23日に米国第44代大統領のオバマ大統領が来日し、安倍晋三首相との会談を持った。主たる話題は、TPP(環太平洋経済連携協定)に集約された。また、中国との関係にも言及がなされた。これは1853年、米国第13代大統領フィルモアの国書を携えて、ペリー米東インド提督が来日し、翌年に日米和親条約を締結してから、160年にあたる。(図)米国は中国貿易と捕鯨船の基地としての開港を要求した。そしてその条約第11条では米国は下田に領事を置くことができると合意した。この点が米国の先を見る目があるところである。日本はこの条約も貿易を回避して、人道的に難破捕鯨船を救助することの徹すればとの姿勢が透けて見えた。タウンゼント・ハリスがヒュースケン通訳を伴い、下田にやってきた。それから交渉が始まる。
日米就航通商条約の実像
米国の意図は、西部に拡大する米国は将来の中国と日本との貿易の体制を開くことであった。すなわち、日本を本格的に開国させ、貿易で双方が利益を享受する体制を構築することであった。それに対して、日本は、長年の鎖国に慣れ切っていたが、隣国の中国がアヘン戦争やアロー号事件でイギリスやフランスに植民地化されたことを聞き、西欧支配下に、置かれることを回避するには、日本が本格的に、西洋の技術・制度に学び、国力を充実させることが大切であると考えた幕府の役人がいた。それは、岩瀬忠震である。彼は、幕府の学問に責任を負う林大学頭家にうまれ旗本の岩瀬家に養子に入った。
老中の阿部正弘に抜擢され、ハリスとの日米修好通商条約の交渉に携わった。
条約の調印に体を張る岩瀬忠震
岩瀬は世界情勢から見て、開国・貿易は国際的な流れであると考え、攘夷を主張する一派とは一線を画していた。時の大老の井伊直弼は開国・貿易に熱心ではなかった。そこで彼は自分と幕府の安泰を度外視して、日本国の将来を第一に交渉をまとめ上げることに決意した。どこが開港場としてふさわしい、京と大阪と江戸はどうしてふさわしくないかを、地理・海底地形、文化、歴史など丹念に調べ上げ、主要都市の開港を要求するハリスに対して、理を持って丁寧に説明した。熱意が実り、信頼関係を構築したハリスと修好通商条約の条文に合意したが、朝廷からの勅許が得られないことを理由に井伊は尻込みをした。それを押して岩瀬は一命を懸けてハリスと調印した。これが日米修好通商条約である。
日本国のために体を張った役人がいた。その後彼は蟄居の処分を受け、40歳代で早死にする。
国際委司法裁判所と調査捕鯨の差し止め
ところで、3月31日に、日米間で開国の原因となった捕鯨に関して、国際司法裁判所(ICJ)が判決を下した。日本が2005年から実施している第2期の南極海の調査捕鯨を差止める内容である。非常に残念な判決だ。日本の調査捕鯨を事実上の商業捕鯨と認定した。この敗訴の要因は日本政府の調査捕鯨の実施が、その精緻に科学的に構成された計画の目的とサンプル数を結果的に無視して、在庫調整の捕鯨に走った事をICJの判事が見逃さなかったことである。すなわち、豪の政治的な圧力に屈して、ザトウクジラを2005年の最初から捕獲しなかったり、850頭の捕獲数が科学的なミンククジラをシーシェパードの妨害がない時から大幅に下回った500頭の捕獲しかないことを指摘され、それでは科学的でない、調査捕鯨ではないと判断された。誠に残念である。
外交は熱意から
その場しのぎでなく、岩瀬の様に、苦しくても将来を見据えることだ。在庫が多いから生産を減らしたり、妨害があるから国を挙げて排除するのではなく、むしろ捕らないことの口実に使った。そのつけがこの敗訴につながったのではないか。。やはり、仕事は苦しくてもコツコツと取り組むことだろう。それが最も成果を生むし、着実に前進しよう。外交にも王道なし。外交も熱意だ。
(図 久里浜に上陸したペリー提督)
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