世界と私

第10回 奴隷解放が本当に南北戦争の原因だったのか

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年6月18日


国家の統一を奴隷解放に優先
 リンカーンは1860年の大統領選挙に出馬する前の1858年の連邦上院議員選挙に共和党の候補として、して出馬し、落選している。相手は手ごわい民主党の候補であるダグラスであった。選挙はダグラスが勝利してリンカーンは敗北した。
 1860年の大統領選挙には共和党はニューヨーク州のシュワードが候補になると考えられたが、彼は奴隷制度廃止論者であり、リンカーンは、穏健派であり連邦政府の分裂を招くくらいなら、奴隷解放の主張は控えるとの立場の現実主義者であった。「連邦政府は半分奴隷制で半分自由という状態をいつまでも続けることはできない。私は、連邦が解体するのを望むものではないし、私の希望は争うのをやめてほしいのである。」とリンカーンは述べている。


1860年大統領選挙でのリンカーンの政策の提言
 民主党陣営にくさびを打ち込むために、リンカーンは3つの柱の政策を打ち立てた。@まだ州に昇格していない準州における奴隷制度導入の反対、A北部地方の産業保護のために、高率の保護関税の導入とB西部で農業に従事する人に無償で農地を提供する法律を定めることであった。
 このリンカーンの戦術にたいして、民主党は、北部と南部が奴隷制に関して対立する見解を纏めることができず、候補者が2分化したことであった。しかし、この結果リンカーンは189万票という全体の39%の得票しかできず、南部ではほとんどの州で大統領選挙人を獲得できず南部諸州からは「きわめて基盤の弱い大統領」とみなされた。


米国憲法は州の離脱を許すのか
 米国憲法は、米国が英国との独立戦争を戦った時代に各州バラバラでは、強力な英軍とは、戦力上対抗するため植民地各州の団結の基盤を形成することが目的であった。
 憲法は「我々合衆国の人民は・・・連合をより完全なものに高め、・・・我々自身及び子孫にとって、自由の恩恵享受を確実にする目的を持って、アメリカ合衆国のために本憲法を規定し、制定する。」と明記している。憲法を起草し、制定したとされる者やその意図を知る権威者もいない。そして、1830年ごろから連邦から離脱できると考える者と、そうではないと考える者に分かれた。合衆国を 分離・離脱できるのか論争は南北戦争が始まるまでの30年間も続くのである。


リンカーンは分離反対論者
 第16代大統領リンカーンは1861年3月の就任演説で「直接的であれ、間接的であれ、奴隷制度が存在する州においてこの制度に介入する意図は全くない。・・・国家を支える基本法には、たとえ明確に表現されていなくても、その存在の永遠性が合意されているものである。・・」と述べている。
 リンカーンが当選するや否や、サウス・カロライナをはじめフロリダ、ジョージアとアラバマなど7州が南部連合を1861年2月に形成した。そしてデイビスを大統領に選出した。
 これらの南部諸州は、リンカーンには大した実力はなく、綿花を欲する英や仏も南部の独立を承認するのではないかとの甘い観測があった。また、南部も一枚岩ではなく最も重要な州であるバージニア州が、南部に後に参加はするが、北部にとどまるウェスト・バージニアとに分離した。また、ノース・カロライナ、ケンタッキーやテネシーも北部諸州にとどまった。


奴隷解放は2次的な目的;南北の分離の阻止
 サウス・カロライナのサムター砦が攻撃されるや否やリンカーンは「強いられた戦争は受けて立つ」姿勢を明確にし、全面戦争に入ることを避けたが、南部は、人口が900万人で北部は2200万人、そしてワシントンDCを中心にして、連邦政府の機能が維持された北軍と分離を宣言したが、まとまりをもたなかった南軍とでは優劣の差は明快であった。
 それまで、米国の分離阻止に大目標を据えてきたリンカーンは、1863年1月に初めて奴隷ア解放宣言を発出した。ここから、戦争の目的が2つになった。戦争の遂行は南部での黒人の軍隊への応募の促進をもたらし、その条件として黒人は、戦後の解放を勝ち取るのである。


第16代米国大統領アブラハム・リンカーン
第16代米国大統領アブラハム・リンカーン


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