キング牧師と非暴力の戦いの原点
マルチン・ルーサー・キングJr.(キング牧師)は1929年1月にジョージア州アトランタにバプチスト教会の牧師であるマルチン・ルーサー・キングSr.と牧師の娘アルタータ・ウイリアムスの子として生まれた。父は正義感の強い人であった。父は農場の労働者のボスが不正を働いているのを見て、農園主に訴えたところ、ボスが祖父(父の父)に脅しをかけ、息子(父)を黙らせようとしたが、それを潔よしとせず、家を出て勉学に励み、牧師になった。一方、母は物静かな優しい人であった。黒人差別があってはならないことと教えた。キング牧師は、ペンシルベニア州のクローザー・神学セミナリーに進学する。1950年インドから戻ったばかりのホワード大学ジョンソン学長のからマハトマ・ガンジーの「サチア・グラハ」(真理へのこだわり=非暴力の抵抗)についての講演を聞き、深い感動を覚えた。
その後にボストン大学の神学部に進み博士号を取得。そこで、ムエルダー学部長の影響下で更に非暴力の抵抗を学んだ。
アラバマ州モントゴメリーのバス事件
キング牧師は1954年モントゴメリー市の教会から、牧師のオファーを受け赴任した。1955年12月、全米黒人教会モンゴメリー支部に勤めるローザ・パーク女史が歴史的事件を起こす。この事件が、キングJr.の人生を大きく変える。パークス女史はバスの一番前の席座りに乗っていた。後の席はすべて満席だった。そこに白人の男性が乗ってきた。運転手は、ローザに席を退くように告げたが彼女は平然とし移動せず逮捕された。人種分離法に違反である。翌日から、モンゴメリー市では黒人によるバスボイコット運動が開始された。その組織化に市内のバプチスト協会(黒人の主たる宗派)の牧師が主導した。その中心にキング牧師がいた。
バーミンガムでの非暴力のデモ行進
1963年4月に公民権運動が更に高まる。アラバマ州バーミンガム市長選挙が行われ初めて黒人の支持者が市長に当選した。対立候補は白人の分離主義者の市警察長官のコナー氏であった。彼は敗北したにもかかわらず、連邦裁判所に選挙結果に対する意義を申し立て結果が出るまで、立ち退かず実権を行使した。これにアラバマ州知事まで介入し黒人を抑圧しようとしていた。
ケネディ政権が介入する。独立宣言にも自由と平等が謳われ、100年前にリンカーン大統領により奴隷解放宣言が行われたにも関わらず、状況が改善されないことを問題視した。
キング牧師は非暴力の抗議行動であるデモ行進に訴えたが、長年のうっぷんが蓄積した黒人の若者は暴力的な破壊活動に及んでいた。ケネディ大統領は連邦軍をバーミンガム市の近くに待機させ、黒人だけでなく白人の強硬派も沈静化しようとする。このバーミンガム事件が、公民権運動の進展に重大な転機となる。公民権は州法で縛られていることが多く、南部の諸州は、黒人の人権を制限していた。北部諸州や連邦政府は公民権の確立に賛成であった。
キング牧師のワシントン演説
1963年8月、ワシントンDCに20万人が集まった。キング牧師はその演説で「私には夢がある。」と語った。そして、ワシントンを大行進した。ケネディ大統領は行進を組織した人々をホワイトハウスに招待した。彼は指導者たちが切望する公民権法案の制定を準備していた。法律が制定されるのはケネディ大統領暗殺後、議会に強い影響力を有したジョンソン大統領によった。キング牧師は1964年にノーベル平和賞を受賞した。ケネディ政権の内政の成果であった。
道半ばで倒れる偉大な人々
1776年独立宣言から1862年奴隷解放宣言まで86年。1964年の公民権法成立まで102年を要した。尽力したリンカーン大統領とケネディ大統領は暗殺された。大きな改革には犠牲が付きものだ。
幾度も暗殺の危機を逃れた公民権運動の推進者キング牧師も1968年4月に白人の累犯者のレイに暗殺された。
(写真;マルチン・ルーサー・キングJr.)
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