太平洋を取り巻く国々と私
第4回 日本の国際裁判とオーストラリア
客員主席研究員 小松正之
2014年10月14日
国際裁判で日本を提訴する豪
オーストラリア(豪)は国際裁判に日本を提訴するのが好きだ。3月に判決の出た国際司法裁判所(ICJ)での捕鯨裁判が記憶に新しい。それでも豪は日本を同盟国と呼ぶ。
1998年7月日本は豪から国際海洋法裁判所(ITLOS)に提訴された。2000年5月、米ワシントンDCの世界銀行の国際投資紛争解決センターでのミナミマグロを巡る国際仲裁裁判所の審理に、私は日本代表団メンバーとして参加した。原告は豪とニュージーランド政府で被告は日本政府であった。ITLOSでの第1審は日本が敗訴した。国際仲裁裁判所での第2審は管轄権で争っていた。
日本が国際裁判の当事国となったのは明治国家の建設以来この時で3度目であった。最初のケースは1872年横浜に寄港したペルーの帆船から中国人労働者を開放してペルーに訴えられた「マリア・ルース事件」で、日本が勝訴した。第2のケースは1902年に外国人居留区の外国人に、家屋税を課して英、仏と独に訴えられた「家屋税事件」で、これは日本が敗訴した。ICJ捕鯨裁判は主要なものでは4度目である
豪は捕鯨禁止から転換
マッカーサーラインが1952年4月に撤廃され、マグロ漁を再開した。1954年3月焼津のマグロはえ縄漁船がマーシャル諸島ビキニ環礁で操業中に米軍の水爆実験の影響を受けた。この水爆は広島と長崎の原爆の500〜700倍の規模と推定された。この事件でマグロ漁船は太平洋からの移動を強いられ、インド洋のミナミマグロ漁業の発見につながる。1956年水産庁の調査船照洋丸が豪州南東沖漁業を、高知県の練習船がインド洋の高緯度漁場を発見した。
一方、豪州は1788年に英から入植以来、捕鯨が主要産業で1820〜1830年には本格的に捕鯨が行われ鯨油とひげ製品を生産し経済に貢献した。しかし1979年に捕鯨を禁止し、ミナミマグロ漁業へ転換を促した。
ミナミマグロ裁判と日本勝訴
ミナミマグロは、南半球に生息する刺身やすし用の高級マグロだ。
豪の急速な漁獲増で資源が悪化したが、その後厳しい漁獲削減で、資源は十分に回復したとする日本と、資源は悪化中との豪とニュージーランドが対立した。日本は資源増加を証明するため1995年から調査漁獲実施を提案したが合意されず、1998年日本の責任で調査を実施した。これが豪とニュージーランドからITLOSへ提訴された。
第一審は1999年8月27日に敗訴判決を下した。その後3国はシュウェーベル裁判長(元国際司法裁判所長)(写真)の下で国際仲裁裁判所を設置することに合意した、2000年8月、同裁判所は「本件を審理する管轄権を有しない」とし、日本が勝訴した。
勝因は何か─捕鯨裁判との比較
勝因は、第1に、第1審で敗訴してもあきらめず、再度戦うエネルギーを持っていたことだ。資源の回復の証拠がそろっていた。捕鯨裁判では判決の前から受け入れるとしICJに何ら反論してない。
第2に、ミナミマグロ調査漁獲を科学計画通り実行したことだ。科学評価も即座に実施し国際仲裁裁判で役立てた。捕鯨裁判では、計画を外れサンプルを大幅に下回り、在庫調整した商業捕鯨とICJから指摘された。
第3に、ミナミマグロ裁判代表団には水産庁から筆者と、科学者も加わった。捕鯨の裁判では水産庁と日本の科学者が入っていない。ノルウェー科学者に証言を依頼したがサンプル数の根拠の説明では対応ができなかった。
第4に、豪代表団にはミナミマグロ裁判経験者キャンベル弁護人がいた。日本代表団にはミナミマグロ裁判経験者がいなかった。
これらの点を前向きに生かしてもらいたい。これからでも遅くない。ピンチはチャンスに変えられる。