太平洋を取り巻く国々と私
第20回 さけます交渉とアラスカの海
客員主席研究員 小松正之
2015年7月5日
函館の様変わり
本年の3月と4月に久しぶりで函館に行った。函館(写真1)は忘れがたい街である。1987年まで函館は、由緒ある母船式さけます漁業の基地であった。ここから毎年5月下旬になると、サケマスの母船団が出航していった。目指したのは米国のベーリング海とアリューシャン海であった。私は、1985年から日米交渉を水産庁で担当した。
写真1;函館山から見た雪の函館市街 2015年3月著者撮影
母船式さけます交渉
私は4月1日水産庁国際課で北米担当の課長補佐(協定班長)を命ぜられた。このポストは、アラスカ沖で操業するトロール船団とさけ・ます船団の操業(図1)に関する非常に重要なポストであった。さけます漁業は、日露戦争後に戦後賠償として得られた、歴史・由緒ある漁業である。戦前はその生産したサケ缶詰は英国などへの輸出。南極海の鯨油生産と並んで外貨獲得の重要産業であった。
ピークの1955年から59年までは16母船団を出漁させていた。私がサケ・マス交渉を担当した時にはわずか4母船団に減少した。日魯漁業の喜山丸、日水の野島丸、大洋漁業の明洋丸と函館公海漁業の仁洋丸であった。さけ・ますの操業には、旧ソ連からの漁獲割当と、米国からの操業上の許可と二つの許可が必要であった。それに加えて米国には国際的な悪法である「海産動物保護法」があって、基本的には、資源状態にかかわりなく、イルカとクジラ類の捕獲を禁止していた。その中での混獲許可を取得しなければならないという使命を日本側は負っていた。
赴任後すぐに、6月に突然日米サケ・マス交渉が始まった。4月に米国が日米加サケマス条約の失効通知をしてきた。失効通報後1年でその国に対して条約は効力を失う。日本にとって、サケ・マス漁業は大変に重要な漁業であるので、日本から米国に対して、直ちに失効通知を取り下げるよう申し入れ、協議に同意した。
米国は北米系のマスノスケ(キング・サーモン)と紅鮭の日本漁船による大量の混獲を問題にした。日本は旧ソ連から漁獲枠を得て、北米系のサケは漁獲しない建前になっていた。大体この考えがおかしい。
トルーマン政権とさけます漁業
交渉が1986年4月に決着してから5か月後、トルーマン大統領の元法律顧問が来日した。彼は戦後、日本の漁船・船舶を日本の狭い周辺海域に封じ込めるマッカーサーラインを撤廃して、日本の北洋漁業と南極海の母船式捕鯨業を再開させた理由として日本が憲法第9条で戦争放棄を余儀なくされ、軍事により発展した日本の工業力を再度発展させ工業立国とするか、純粋な農業国とするかの判断を迫られ、米としては工業立国の道を歩ませることにした。すなわち、造船業・計器産業を通じ日本の工業技術を維持しアジアに緊急の事態が発生した際には工業技術力の周辺有事に活用が目的であった由。一般に知られる理由は、戦後の食糧難の解決と対英・対米輸出で外貨を獲得して、日本の経済の復興をさせるものだ。
日本経済の中で、漁業の果たす役割は小さくなった。従って、米国政府の中にも、自分の庭である、ベーリング海とアリューシャン海で日本漁船を操業させる寛容さを有する者がいなくなった。
安全保障と改憲論
安全保障法案の議論がにぎやかである。戦後直後は、日本が米国に経済・政治も従属し米国の寛容さの前に日本の漁業・造船業が発達してきた。現在は、自衛隊も存在する。日本国憲法は戦後直後の産物である。時代にそぐわなければ、時代と将来の政策方針を見据えて改正するべきもの。日本よりハードルが高い米国も憲法を27回も修正した。そのために1万件以上の修正案が出された。修正の発議も両院の3分の2以上で50州の4分3以上(38州)の賛成が必要である。日本は安易な法律改正で対応しようとし本質的手法の憲法改正には打って出ない。国会が発議しその信を国民に問い、国民が修正する憲法を守るのが真の護憲で立憲国家であると考える。