太平洋を取り巻く国々と私
第21回 アンカレッジでローマへの旅の中断
客員主席研究員 小松正之
2015年8月6日
アンカレッジ経由でローマへ
1985年4月から日米漁業の交渉担当となり、何度アンカレッジに行ったことか。アンカレッジは北緯61度13分に位置し、人口は292千人である。夏では一日中夜は来ないし、冬はほとんど一日中夜である。夏は仕事が終わってからもゴルフや氷河の観光ができる。私達は、北太平洋漁業委員会に出席した。その委員会は、日本漁船のアラスカ沖での操業のための漁獲割当を得るために重要な会議であった。われわれ日本政府代表もオブザーバーとして発言を許されることが多かった。アラスカ州の首都はアンカレッジの南にあるジュノーであった。この二つの都市には、何度行ったかわからない。州政府のほかに連邦政府水産局の地方事務所があった。そこもワシントンDCの中央政府に勧告をする重要な機関であった。その頃は、欧州行き飛行機便が、旧ソ連の上空の通過権を有しておらず、東京からの航空便は、必ず、アンカレッジを経由して、欧州各地の空港に向かった。私達がイタリアローマに向かった1988年7月24日、東京―アンカレッジーコペンハーゲン―ローマで合計22時間を要する長旅であった。それも東京・成田空港発21時であった。
1988年の夏は7月に入り日照時間がきわめて少なく、異常な冷夏で体調もすっきりしなかった。
アンカレッジで途中降機
ところで、私もなかなか日本を立ち去り難かったが、娘達もそうであった。
私達の家族は、米国留学から帰国後直ちに北区西ヶ原の狭い公務員住宅宿舎に4人が窮屈に住んだ。しかし妻も子供達も、交友の幅を広げて長女は当地の幼稚園に通い数人のお友達もできた。大変に名残リ惜しそうであった。出発前夜に家族が最も親しくさせていただいた家族のところで、日本での「最後の晩餐」をいただいた。その後ホテルに入ってからも長女は多くのことを思い出した様子で「友人」に電話をすると言い出した。親の私にも切ない一晩であった。翌日長女が風邪気味になってしまった。そしてやはり、日本航空機内で発熱をした。物理的、精神的な疲労と天候不順が複合的に重なり、搭乗してから30分もしないうちに、腹が痛い、体が熱い、寒い、トイレに行きたいと言い騒いで大変な事態になった。スチュワーデスも事態の重大さを察して気を使っていただいた。結局、アンカレッジで途中降機したが、其れまでの6時間は長女の世話で、わが娘が心配なあまり、精神的肉体的にへとへとにつかれた。アンカレッジ到着後に私は帯状疱疹を患った。
途中降機を決めると、日航機からアンカレッジの領事館に連絡を取り、アンカレッジ市内の緊急病院に行き、診察の結果上部呼吸系疾患と診断され、解熱剤と抗生物質をもらった。医者は症状と病院を説明し、なぜ薬を投じるかまで説明してくれた。
ローマに向かう
長期滞在用のホテルに移り、買い物以外に外出することもなく長女の療養に専念した。しかし荷物はすべてローマに到着しているので、生活する物はほとんどなく、衣類から食器そして日本食の提供まで長尾領事夫妻と城台大日本水産会アンカレッジ事務所所長夫妻には本当にお世話になった。食事のおいしさと有り難さが未だに思い出される。39度の熱があったが急速に下がった。27日にはローマに向かってもよいとの医者の了解も取れた。アンカレッジ発の昼便であり、気分的にも体調管理の上でも本当に楽であった。幸いにも、前便に比べて機内はすいていた。日本航空の引き継ぎもあり、チーフパーサー以下気を使っていただいた。コペンハーゲンでも沖書記官が出迎えてくれた。本当に恐縮した。そして漸く勺熱のローマに着いて、これからどうなるのかとほとほと心配が増した。しかし、子供たちは思いのほか元気であった(写真)。適応が本当に早い。