私が見た世界

第2回 ケネディ大統領のキューバミサイル危機対応から日本は学べ

政策研究大学院大学
小松正之
2013年12月10日

理想・現実主義者:ケネディ大統領の就任
 1946年英国のチャーチル前首相は、北はバルト海から南はアドリア海まで鉄のカーテンが敷かれていると、冷戦の始まりを象徴的に表現した。
 ジョン・F・ケネディが大統領に就任したのは1961年1月であった。彼は行政、外交とソ連との交渉に未経験であった。然し彼は、現実の問題に対処しながら次第に手腕を発揮する。一方で彼には明確な哲学があり、理想主義者であるが現実主義者でもあった。彼は東西両陣営の核兵器開発のエスカレートが膨大なコストをかけ最終戦争に導く恐怖を助長していると考えた。東西両陣営の対立とそれぞれの内部に対立を好む強硬派を抱えていることも問題であった。


東ドイツのベルリン壁建設
 ベルリンは第2次大戦後ソ連と英米仏が分割統治した。東ベルリンから繁栄する西ベルリンへの逃亡者が絶えず、東ドイツは1961年8月にベルリンの壁を建設した。この冷戦の最中、1961年ケネディ大統領は西ベルリンを訪問し、自由を追求する大観衆の前で演説した。「私はベルリン市民である。」と語りかけた。壁は1989年11月に崩壊する。私がイタリアにある日本大使館の一等書記官時の時である。身近だった。
 1959年、キューバのバチスタ親米政権が、フェデル・カストロにより、転覆された。それに対してCIAと本国を追われたキューバ人はカストロ政権を倒すため1961年1月キューバに進行した。しかし、カストロに撃退された。ピッグス湾事件である。ケネディ大統領は落胆したが、その後の大きな教訓になった。
 ソ連には、ドイツが最大の恐怖であり、西と東の統一や西ドイツが核兵器を保有することを極端に恐れた。ドイツに2000万人のロシア人を殺されたトラウマである。ケネディ大統領は対立と冷戦状態が決して将来と未来の子供たちにも決して良くないと考えていた。まずは、核実験の廃止を訴えようとした。


キューバミサイル危機とケネディ大統領の平和外交手腕
 ソ連との対話も重要であったが、米国内も、軍人や軍事産業とCIAを中心に強硬派が存在し、ソ連もフルフチョクは絶対的な権威者ではなかった。ソ連にもタカ派が存在する。
 ソ連は米国を狙える範囲に核兵器を配置しようとした。それがキューバによるミサイルの配置であった。ケネディ政権は検討を重ねキューバを米海軍の艦隊により海上封鎖する決定を下した。
 ピッグス湾作戦の失敗に懲りたケネディ大統領は軍事作戦を遠ざけ、平和的解決枠を探ろうとする。フルフチョフとの直接と人を介しての間接の対話に努めた。その結果が海上封鎖で、トルコから米核ミサイルを撤去する。ソ連への実益とメンツを考えた結果であった。
 このケネディの決定の結果、核戦争に発展する危機は回避された。ケネデイの大局観とリーダーシップである。ソ連の艦船を撤退させたフルフチョフの意思決定も大切だ。この決定が世界を救った。核兵器を使ったら、世界は破滅だった。


ケネディ大統領に学ぶ日中韓の関係
 最近の日中韓の関係は、尖閣列島、竹島の領有権と中国が設定した航空識別圏をめぐってエスカレートしてきた。その背景には中国の軍事力の増強や中国を念頭に米と共同歩調を取る日本の集団的自衛権の議論がある。お互いが冷戦時代を同じように対話を欠き、軍事的なコストをかけ、自らの権利と優位性の確保を目標としているが、結果的に、地域の人々に恐怖と不安定を増し無駄な費用をかけている。
 冷戦と核戦争の危機に直面したケネディの核実験禁止条約の締結やキューバ危機の回避に発揮した手腕、哲学、見識とリーダーシップに学ぶべき時がこの地域に訪れている。対立のエスカレートではなく不安定の除去が大切だ。対話と交流からこの地域繁栄と真の安全保障が達成されよう。3か国の首脳の手腕にかかる期待は大きい。よく相手を学び、お互いに話してもらいたいと真剣に思う。

以上

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